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夏に願いを 掌編(一記事完結)

 二十歳になったら死のうと思っていて、それには、二十歳までは生きてみようという希望の意味合いも少しは含まれていたのだが、実際二十歳になってみると、やり残したことは特になく、だからといって昔ほどに死にたいとは思わず、肉体より先に精神の死が訪れたような感覚が強い。

 やがて、それさえも失ってしまうのかもしれないという、僅かな恐怖と安堵の混ざり合う、分離不可な感情が、くるくると頭の中を回っている。

 それでも、夏という幻影に囚われている。白いワンピースに麦わら帽子を被った女の子がどこにもいないなら、自分がそれになるしかないと思っている。腰まである黒髪を櫛で美しく整えて、ラムネ瓶を片手に田園沿いを歩くしかない。軽い短編集を持って、炎天下をどこまでも行くのだ。

 姿見の中の無表情の私に別れを告げて、日焼け止めを丁寧に顔、首、腕、足の順に塗ってから、合皮の鞄を持って、サンダルを突っ掛けて外へ出る。ストラップのついた鍵を扉に挿して回す。カシャン、外の世界へ意識を向ける合図のように鳴る。

 蝉時雨の夏を駆ける。風を呼んで鳥を真似る。すれ違うのは郵便物を回収する人、晴天を仰ぎ見る人。影を連れて坂道を下る。涼やかな日陰を踏みつけて、揺れるスカートの裾が視界に入る。炎夏のベールを翻し、制汗剤の膜に包まれて、軽やかに熱風を纏う。心が軽くなりすぎて、私が、私ではなくなってしまいそうな気分になる。

 高校の通学路だった道に差しかかる。足が止まる。自分の人生に重くのしかかる数々の記憶が蘇る。美しい世界への賞賛と、私の意識を内省に引き戻そうとする鬱屈が喧嘩して、勝ったのは後者だった。また、歩き出す。今度は、足取りが、重い。頭の中の語り部の声が聞こえはじめる。

 あの日、いつも通り家を出た。でも、帰る気はなかった。何処にも行けないと知っていたのに。いつも重い制服がさらに重い気がして苦しかった。顔を上げた時、いつもの道がいつもの道じゃないように見えた。世界の広さを知らないことに気がついて、狼狽した。私が立っている熱くて黒い地面がどこまで続いているのか誰も教えてくれないまま生きていることが、とてつもなく怖かった。

 それなのに、結局また次の日には、学校へ向かう。教室にいる私は、一方的に友人という言葉を抱いて、同級生に一生懸命話し続けている。空回りの音、脳内に届く反省会の通知。笑顔で手を振って帰る。振り返してくれる。私のいない教室、クーラーの効かない廊下、残った彼らの話題を知ることはなく、日が暮れていく。疲れだけが残る。ただの疑心暗鬼。されど疑心暗鬼。

 靴と接触して擦れた影がアスファルトに揺れる。その拍子に合わせて、語り部は支離滅裂一歩手前のような言葉の紡ぎ方で捲し立てる。

 オトナの世界、嘘だらけ、コドモの世界も大概嘘。コドモの世界は純粋無垢?それは名演技。オトナハ時々敵。みんなみんなみんな、本性、陰湿。デキナイ、信用、誰も。居場所ナイ。でも逃げられナイ。アイツらに、壊されそう。ニンゲンたちに、壊されそう。

 今もずっと変わらない、そう思う。子供であったことへの不満と大人になりきれないもどかしさ、子供に対しても大人に対しても抱く嫌悪感、普通になりたいという切実さと、それには特別になれないくらいならばという前置きがあること、特殊な自分への歪んだ愛着と自己嫌悪、そういう感情たちと一緒に暮らしている。そもそも、子供とか大人とか自分とか、人間とか、それって一体なんなんだよ、そう思っている。

 少し先の歩行者信号が点滅して、赤に変わる。車の往来を眺めながら、首筋に滲む汗が滴になって流れるのを感じる。向かいの川沿いに広がる公園に、遊ぶ親子が数組いて、ガラス越しのような、いや、ガラスより不確かな透明に遮られた場所から、世界を見ている気分になる。

 くだらないと思いながら今日を生きて、だけどいつかは美しくなれると信じてもいる自分と、見知らぬ人々の微笑みの間に横たわる溝。きっと果てしなく続いているはずだと思って見上げた空も、その青を、飛行機雲が切り裂いてしまっていて、憐れだ。

 ため息をついて前を向くと、横断歩道の向こう側で、卒業後は一切会わないのだろうなと互いになんとなく思っている大学の同期が、手を振っている。昨日、仲が良いのか悪いのかわからないと周りに言われるし、自分たち自身もよくわからないよね、と話をしたばかりだ。

 高い位置で結ばれたツインテール、猫のような目。黒と青で纏めた服装。信号が緑になり、私は彼女の方へと歩いていく。彼女は私に軽やかな声をかけてくる。

「やっほー、何してんの」
「散歩。そっちは?」
「宝探し」

 そう言って持っている紙袋から、数枚のCDを取り出した。東京にある大学のサークルのコンピらしい。ジャケットに印字された日付から、十年以上前のものだとわかる。

「古本屋でバイトしてる律くんって、わかる?」
「うん、あの少女漫画から出てきたみたいな人」
「あたしの従兄だよ。少女漫画なのは見た目だけね。その人にもらった。時間あるなら付き合ってよ」
「いいよ」

 私と彼女は歩幅を合わせて、公園の隅まで歩いていく。一歩進むたびに、草の香りがする。小さな虫を払い、川の近くまで行く。熱を帯びた光が水面を跳ねている。落下防止のための柵の手前にしゃがみ込んだ。サンダルの隙間から肌に触れてくる雑草がくすぐったい。

 彼女は紙袋から小さくて古い簡易的なCDプレイヤーを取り出して、イヤホンを刺した。コンピをセットして、私にイヤホンの片側を差し出してくる。受け取って、左耳につける。彼女は右耳につける。再生ボタンを押して音量を少しずつ上げると、疾走感のあるギターの音と、男性の声が聞こえてきた。彼女は薄らと笑った。

「いいね、これ。どこかの知らない人の歌ってところが特にいい」
「なんで?」
「思い出したから」
「何を?」
「憂鬱を歌っているんだと思って聞きはじめたバンドがさ、たまに希望を歌うから、だから何も信じられなくなったんだってさ」

 そう言って目を閉じる彼女の長いまつ毛をしばらく眺めた。捻くれ者、そう心の中で呟いた。彼女はイヤホンを耳から少し離して、顔を上げた。

「ねえ、どうしていつも一人でいるの?」
「私の心の傷を覗いて、綺麗だよって言ってそこに蜘蛛の巣でも張ってくれる人がいたら全力で愛すよ」
「浅はかだね」
「実はそれって私なりの私への愛なんだよね」
「そんなことだろうと思った」

 彼女はそう言って少しだけ笑った。私も笑い返して、目を閉じる。二曲目は、音の歪みがかっこいいけれど、歌詞が全く聞き取れない歌だった。彼女が隣にいる気配を感じながらも、音に耳を澄ます。しばらく聴いているうちに、ずっとこのままでいようかと思いはじめた。

 もう一度世界を見つめたら、思っているよりも優しい光や、水面に浮かぶ鳥や、その他さまざまなことに涙するかもしれないけれど、それは内なる世界の孤独の延長線上にある出来事であって、私にとっての完全なる外とは、そこかしこで起こる争いごとや、耳を塞ぎたくなるような喧騒や、魂を抜かれたような人々の往来などのことなのだから、怖い。だけど、それも本当は怖くなんてなくて、ただの日常だし、何度も経験していることだと頭ではわかっている。

 そうしているうちに、曲は終わる。無慈悲に終わる。仕方なく、顔を上げる。彼女も同時に顔を上げた。

「まだ聴く?それかもう終わる?私は満足かな」
「うん、終わろっか」

 イヤホンを外して返すと彼女は手際よくCDプレイヤーを紙袋に片付けた。私は、立ち上がった彼女を見上げる。

「ねえ、私ね、いろんなことが怖いんだ」
「何がそんなに怖いの?」
「わかんない。だから怖い」
「一緒だよ。全部、全部怖い。臆病で、何もできないんだ。楽しむことや心から笑うことさえ、恐れてる」

 彼女は私を見下ろして、笑わずに言った。私は提案する。

「もう少し、一緒に散歩しない?」
「いいよ、暇だし。本当は暇じゃないんだけど、側から見たら暇に違いない」
「どういうこと?」
「本当は焦らなきゃいけないし、心の内では焦ってるし、全然怠惰なんかじゃないんだけど頑張れるほどの気力なんてないのも事実で、結局どんな言い訳を並べて生きてみても、暇にしかならない」
「そっか。私も、暇だよ」

 私の返答を聞いた彼女は少し嬉しそうな、それでいて哀しそうな目をして、長い髪を手櫛でとかした。ただ生きているだけ、少し微笑んだり、ゆっくり瞬きをしたり、そんな仕草にさえ、彼女の苦しみが見える気がした。

 私は立ち上がって、彼女と歩き出した。合わないサンダルを履いてきてしまったから、足が少し痛み始めていた。縁石に飛び乗ってバランスをとりながら歩く彼女の、背中越しに見える遠くの山の緑を眺めながら行く。

 彼女はすぐに飽きたのか、車通りの多い道に差し掛かったからなのか、私のそばに飛び降りた。無言のまましばらくの時が過ぎ、コンビニのそばを通りかかった時、彼女は駐車場の隅の方を指差した。人差し指の爪は、ボロボロだった。軽い口調で話し始める。

「心、その辺に落としたはずなのに、拾う前に消えちゃったんだよね」
「なんで、平気そうなの」
「もう、去ったからだよ。何もかも」

 彼女は私の方を向いて微笑んだ。髪を触りながら伏し目がちになって、私の首元辺りを見る。落ち着いた声で呟く。

「ねえ、お互い様じゃない?平気なふりしてる時は壊れちゃってて、壊れちゃったふりしてる時ほど平気なの」
「じゃあ、今は平気じゃないんだ」
「そう、だね。でももう、去ったんだ。今あるのは、治せない後遺症だけ」

 彼女は少し困ったように笑った。なんとなく、この世界に少しだけ残してある意識の端くれ同士で会話をしているような気になる。その他の意識は、外に向いていない。こうして話していても、互いに、相手を通して自分の内面を見ているような気がする。自分の心が揺さぶられて、しまっておいたはずの様々な記憶や感情が、また炭酸のように溢れてくる。下を向いて歩いていると、自分の影に意識が堕ちてしまいそうになる。

「何、考えてる?」

 彼女の問いかけが、頭の中の語り部を呼び覚ます前に、私を現実へと引き戻す。

「他人の思春期を幼稚だと嗤っていた十代の頃の同族嫌悪とか、それを懐かしいことかのように思い出す今日の私はまだ二十歳だとか、まだ二十歳なのにもう二十歳だと思っているとか、実は十五歳の時にももう十五歳だと思っていたこととか、何かを諦めるにはまだ早いのに、新しい夢を見るには遅すぎる歳になっちゃったなとか、いろいろ」

 底流に常時溜まる代謝の悪い絶望感とか、実はそれが絶望っぽく塗装しただけの薄っぺらい自尊心だったとか、他にも言いたいことはあるけれど、まだ過去になっていない傷が痛むから、また今度でいいやと思った。まだ、自分の心の奥深くまで踏み込む勇気はない。

 一生治らない傷口たちを雑に縫い付けて、なんとか誤魔化して生きている。傷は、本当は過去になんてならない。彼女の言う後遺症だって、まだまだ開いたままの傷のことに違いない。頭では何もかもわかっている。分かりたくないことでさえ、わかってしまう。けれど、未熟な心が追いつかないから、今日もどうでもいいはずのことで悩んでいる。ふと、彼女に聞いてみる。

「ねえ、私らってさ、もう大人なのかな」
「そうなんじゃない?」
「なんで?」
「あんなに覚えたポケモンの名前も今はほとんどわからないじゃん。そもそも覚えててもあんま思い出さないじゃん。ピカチュウのことさえ思い出さなくなったら、いよいよおしまいだよ」
「意味わかんないけど、なんかわかる気もする」

 歩道に沿って歩いて行くと、小さな神社が見えた。

「神社、寄ってかない?」
「そうだね、久しぶりに、いいかも」
「決まり」

 私は彼女の提案に乗って、鳥居をくぐった。空気の流れ方が変わったような気がする。静かで清らかな空気だ。松の木が並ぶ砂利道を進み境内へと着く。並列に並び、賽銭箱に五円玉を投げ込む。太い縄を揺らして、鈴を鳴らす。拍手をして、目を閉じる。彼女がきちんとした作法を無視するから、私もそうした。

 下を向きながら静かに、垂れた髪の隙間から隣を見る。彼女がまだ願い事をしていたから、少し待った。彼女が顔を上げると同時に、私も願い終わったふりをして顔を上げる。行こっか、そう言われて頷く。賽銭箱に背を向けて、歩き出す。私は彼女に問いかける。

「何、お願いした?」
「なんにも。ただちょっと、楽になれたらいいなってさ」
「それにしては長かったんじゃない?」
「耳を澄ませてたんだ。夏の綺麗な音がするなって思って。そういう君は何を願ったの?」
「いつか幸せが訪れても、私は私のままでいられますように」

 彼女は、ふーん、と言ってはみたものの、納得できなかったようで首を傾げた。

「今幸せになりたいって、言わなかったの?」
「まだ、幸せにはなれない。許されてない」
「幸せになるのに許可なんていらないでしょ」
「うん。そうだね。誰も、許しようがないんだ。許すとか許さないとか、そんなルールないんだもの」
「それでいいの?」
「うん。それがいいの。幸せになれって命令されるより、ずっといい。幸せにならなくたって、世界を愛して生きていけるから」
「そうかもね」
「答えがどこにもないから進めないってさ、今はまだそう言っていたいんだよ。だから、幸せは許可制って思い込みが必要なの」
「停滞って安心だもんね。でもそれただの猶予期間でしかないよ」
「わかってる」
「ねえ、幸せなんてただの幻想だとも思わない?」
「幻想?」
「私らにとっては、目の前で実ることのない、あるいは手にすることのできない果実なんてはじめから果実ではないけど、どこかで実ったことがあるらしいことだけは確かで、だから存在を否定することはできないの。その本当の姿は知らないのに、ないとは言い切れなくて困ってんの」

 彼女はそう言い残し、木造の小さな休憩所の前に設置された自販機まで小走りで行った。私は後を追ってゆっくりと歩いた。蒸し暑さと蝉の叫び声が、ざらついた孤独感を呼び起こす。追いついた時、彼女は手に二本のファンタグレープの缶を持ち、そのうちの一つを私にくれた。 

 休憩所には入らず、軒下に設置された木製のベンチに並んで座る。休憩所の白い壁が背もたれ代わりになっている。もたれかかって、プルタブに指を引っ掛けて、力を込める。プシュっと音がして、斜め上を向いて口に近づけるほどに甘い香りがする。炭酸が弾けて喉を通り、身体を冷やす。

 顔を上向けたついでに空を見る。橙色が勢力を増し始めている。もうすぐ、青は弱々しく溶け切ってしまうだろう。足を投げ出して、耳を澄ませてみる。たしかに、夏の音がする。蝉の鳴き声、木の葉のささめき、短パンを履いた少年たちの笑い声。生ぬるさと爽やかさの混ざり合った風が、私のほおを撫でていく。切なくなって呟いてみる。

「風に聞いてもどこへ行けばいいかわからないや」
「わかりたくないから風に聞いたんでしょ」
「でも、どこかへ行く気はあるよ」

 また、こうやって自分を追い込むような真似をする。大地に根を張ることのないこの細く頼りない足がすくんでいると知られたくないのだ。どこかへ行く気はあるのだと慰めのように繰り返すことでどこにでも行けるような気がする。

 その時こそが真に行った時よりも自由であるように思えるのだ。そんなのはその場しのぎのまやかしだと知っているのにだ。虚しいと、思う。人間なんてそんなもの、と諦めてしまう方がいいのだろうけれど、できない。そんな、簡単じゃない。

「どこへ行きたいの?」
「わかんない。でも、ここにはいたくない」
「そっか。いつか、行けるといいね。どこかにさ」
「うん」
「それかさ、ここが、そのどこかより素敵な場所になるといいね」
「うん」

 私が返事をした後、彼女はそれ以上何も言わなかった。しばらく、黙っていた。色彩豊かな世界を見渡して、ゆっくりと息を吸って吐いた。木漏れ日が、微睡に似た憂鬱を加速させる。願い事、もう一つしておけばよかったと思う。

 この夏くらいは、美しい思い出になりますように。

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