(連載小説:第18話)小さな世界の片隅で。
”はい…。お願いできますか…?”
”分かりました…。”
歩は、主婦の方を見て、言った。
”「大丈夫」。きっと…、大丈夫ですよ。”
主婦は、少し間をおいてから、
”ありがとうございます…。本当にありがとう…。”
少し擦れた声で言い、軽く頭を下げて、歩と反対方向へ歩いて行った。
主婦が頭を上げた時、顔に手をやり、直ぐに振り返って行ってしまったので、表情を伺う事は出来なかったが、歩には、なんとなく分かったのだった。
”何か役に立てたのかな…。”
主婦が去った、風が吹き抜ける河原の道で、歩は、一人そう思っていた。
(X-4日)
主婦の事情は、よく分からなかったが、こんな自分にも、何かできる事があった様な気がして、なんとなく嬉しかった。
振り返ると、主婦の姿は随分小さくなっていた。主婦も歩に気づいたようで、再度、歩の方を振り返った。小さくお辞儀をすると、向こうも合わせてお辞儀をした。そのまま姿は遠ざかり、道の向こう側へと消えていった。
歩は、ウォーキングを続ける。
路面が舗装された道の片側斜面は、土手の形成を保つため、エノキ、ムクの木、クヌギ、桜、梅、椿、金木犀等の木々が無造作に植えられ、土台の斜面にしっかりと根を張っている。
その木々が道の片側斜面に、間隔を空けて、並木道を作っている。土手部分がコンクリートで舗装され、木立が撤去されて、吹きさらしになった河原の道と、まだ木立の残る並木道とが一定の間隔を空けて混在し、景観上のリズムを作りだしている。
木立の枝先のまだ青さを残す葉が、時期に合わせた枯れ葉となり、やがて散りゆくよう、徐々に残された水分を奪い、その成熟を促すように、西側から乾いた冷たい風が吹き続けていた。
途中にある、トイレの前まで来て、ふと思いだした。
以前、トイレの傍の家の2階の窓から、お婆さん(とみ:第1話参照)が、こちらに手を振っていた事を思い出した。
”あのお婆さん…、そういえば、最近見てないなぁ…。”
少し気になり、その隣家の2階に目をやると、窓のカーテンは閉じられ、ひっそりとしていて、中の様子を伺う事は出来なかった。
”…。”
そして、何気なく、1階の玄関の方に目を移すと、玄関からやや離れた位置にある電信柱の影に、男が一人佇んでいるのが見えた。
男の風貌は、少し太っており、パジャマの様なグレーの上下スウェットを着て、サンダルを履いていた。髪は長くボサボサで、顔には、無精ひげを蓄えていた。
その男は、その電信柱の影から、玄関に近づくものの、途中で立ち止まり、引き返して、また元の電信柱に戻り、玄関に入れずにいる様だった。
風貌は、中年の様にみえたが、その所作から、まだ若い感じの印象を受けた。30代の前半位だろうか。
歩は、何か引き付けられるように、その男の元へ向かった。
トイレ横に設置されている階段を下り、土手の下へ降りる。
家の玄関の方へ周り、電信柱の影にいる男に近づき、声をかけた。
”あの…。すみません…。”
男は、少し驚いたように、顔を上げた。
”はぃ…。”
男は、今にも消え入りそうな声で返事をした。
やはり、風貌よりも若い声をしていた。
衝動的に声をかけた歩は、次の言葉が出てこず、焦った。
少し考えた後、歩が再び口を開く、
”あの…、僕は、ここの近所に住んでて、休みの日に、よく、この辺を散歩しているものなんですけど…。”
”え~と…、初対面で何なんですけど…”
”もしかして、あなたは…、あそこのお婆さんの…”
”…。”
歩は、男と目が合った。
男の目は、何か、憂いを抱えているようだった。
言葉を言い終える前に、なんとなく男の境遇が分かる様な気がし、言葉を続けるのをやめた。
少し、間があって、男が、歩に話始めた。
”あの…、ばぁちゃん…、もうすぐ亡くなるかもしれなくて…。”
男は、家の2階部分に目を遣りながら言った。
”そう…なんですね…。”
”歳とってから、心臓と…、それから肺も悪くなって。ずっと、家で療養してたんです…。でも…昨日から…、ちょっと様子がおかしくなってきてるって…”
”母さんが電話で話しているのを、聞いて…。”
”…。”
”…僕は、婆ちゃんの…その…孫なんですけど…、普段は離れて暮らしてて…、”
”何度もここへ来たかったんですけど、色んな事があって…、来られなくて…、”
”その後、自分の家族とも、関係が悪くなってしまって…、結局、ずっとここに来れない感じになっちゃったんです…。”
”…。”
歩は、他人にはうちあけづらい、話しづらい事を、ポツリポツリと話してくれている、この青年の姿が、追い込まれていた時の自分の姿に、何故か重なって見えていた。
”でも、今日…、その話を聞いた瞬間に、いてもたっても居られなくなって…、”
”自分でもびっくりしてるんですけど…、今日…、ここまで来れたんです。”
”でも…この先が…、この先が…、”
”僕には、遠すぎるんです。”
”婆ちゃんがあそこにいる…、あそこにいて…、もう会う事が出来なくなるかもしれない…、”
”何より、自分があそこに行きたい…、行ってあげたいのに…、”
”玄関の前まで行くと…、体がすくんで…、固まってしまって、自由に動けないんです…。”
”それで…、気が付くと、いつの間にか…、ここまで、戻ってきてしまうんです…。”
”本当に…、本当に…、こんな…自分が情けなくなります…。”
”どうして…どうしてでしょう…。”
そういうと、その青年は俯き、下を向いた。
青年の肩は少し震えているようだった。
”あれ…、なんで僕は、あなたに…こんな事を話してるんでしょう…”
”その…、あなたは…何故だか話しやすくて…、つい…。”
”困りますよね…。見ず知らずの他人に、いきなりこんな事を話されても…。”
青年は、そういうと、何かを堪えて、”へへ…”っと、うっすら笑い、俯いていた顔を上げた。
目を赤く滲ませ、無精ひげの奥で、今にも下がりそうな口角を上げ、微笑がが崩れない様、必死に耐え、向き直った青年を前にした歩は、自分の目の奥から熱いものがこみあげてくるのを感じた。
歩は、堪えながら、青年の方を見て、ゆっくり話した。
”あの…、”
”お話の答えになるかは分からないんですけど…、”
歩も、思い出しながら、ポツリポツリと話始める。
”実は、僕も…、去年、祖母を無くしたんですよ…。僕の場合は、急変があって、看取りには間に合わなかったんでけどね…。“
”僕もおばあちゃん子でしたから、当時は辛くてね。”
“大きくなってからは、そんなに頻繁に会う事もなかったんだけど、亡くなって、しばらくは、何故だか自分の中に何かぽっかり穴が空いたような、自分の中の一部が損なわれてしまったような感じがしてね…。”
“僕の場合も離れて暮らしてたから、亡くなった後も、おばあちゃん家に行くと、まだ居る様な(ひょっこり顔を出すような)気がしたりしてね。”
”それで…、僕もそれから…色々あってね…。”
(※車で海に突っ込んで、一回死んでしまったりもしたけど…。)
”…。”
”今日は…、ついさっき思い立ってね、そのお婆ちゃんのお墓参りに行ってきたんですよ。”
“そしたら、そこでね。思い出した事とか、感じた所があって…。”
”何か…、参考になるかな…。”
歩は、もう一度思い出し、出来るだけ整理して話せるよう、つとめた。
”そのお墓参りの中でね…、一つ一つは気が付かないと通り過ぎちゃう様な小さな事とか、当たり前になってる様な事なんだけど、なんていうんだろ…、
”色んな人の顔とか、思いとかが、浮かんできてね…。今まで関わってくれた人とか、自分が生きてきた道の背景を感じたり、おぼろげな風景、思い出にもなっていないような思い出を感じたり。どれも断片的なものなんだけど、そのどれもが、今の自分に寄り添ってくれた様に感じたというか…。
”…。”
”こんな僕みたいなもんでも、人間生きてるとさ、色んな事があってさ、悲しい事とか、怒りで我を忘れそうになったり、それこそ死にたくなる位つらい事だったり、誰に、何に、ぶつけていいのか分からない、整理がつかない、どうしようもないような感情とかもあってさ、自分を見失いそうになる時とか、やけになって暴走しちゃう時とかも…、時にはあるじゃない。”
”でもさ、その人の事を思うと、顔がよぎるとさ、ふと我に返る事ってないかい…?”
”なんか…、それを、僕は、思い出した様な気がしてね…。”
”その人の亡くなっていく姿を見た時、生きてきた道とか、一緒に過ごした時間を思い出したときとかにさ、僕は何故だか、いい加減に死ねないなって…、そう思ったんだよ。頑張らなきゃとか、生きなきゃとも違う。ただ死ねない。死ねないなって…。すんでのとこで、僕はそう思ったんだよ。”
”だれでも、なんでもいいと思うんだけどさ…、そういう人とか、思い出がさ、心の中に残ってる。その事自体がさ、実は、なんか…、すごく尊い(大事な)事の様な気がしてさ。”
”今思うと…、なんていうのかな、それが、渦中の中で、生きてく力になったり、自分を支えてくれてたり、ふとした時に道に迷わない様に、自分と一緒に伴走してくれてたのかなって…そう…感じたんだ…。”
”何でもない日の、何でもない場所だったんだけどさ…、過ごした思い出と一緒に、昔の自分もそこに居て…。そこで…遠い昔の自分に出会った様な気がしてね。昔から今までずっと自分の中に捨てきれずに残っているものの存在を感じて。自分にとって本当に大事なものっていうのが、分かった様な気がしたんだ。”
”その…、僕にとって大事な、形にもならない、言葉にもならない様なものがさ、今の世の中でね…、社会的に必要か、不要かっていうのは僕には分からない…。もっていたら、生きにくくなったり、邪魔になるだけかもしれない。”
”でも僕は、僕はね…、ばあちゃんが亡くなって、姿が無くなった後で、手の中に残ったそれを、手渡されたかもしれないそれを、最後まで大事にしよう。それを持って、僕も最後まで走ろうって、そう思ったことを思い出したんだ。“
”何かうまく言えないんだけどさ…、今日、僕は…、そこでね…、そんな事を感じたんだよ…。”
“あと…。僕の場合はさ、叶わなかったけどね。まだ婆ちゃんが生きてる間にさ、こんな気持ちをね、簡単な言葉でもいいから、伝えておきたかったなぁと、そう思ったよ。”
”…。”
青年は再び俯いたが、歩の一言一言を、静かに聞いていた。
”どうだい…?なんかすごい個人的な事で、一方的に喋っちゃったけど…、少しはお話の参考になったかい…?”
”…。”
”事情とか色々あって、自分を縛ってしまってる部分もあるのかもしれないけどさ、そういうのも、乗り越えて…。いや…、乗り越えられなくても、向き合って、前に歩いていけばさ、通り過ぎた時に、案外大したことなかったって事もあるような気がするよ。”
”君は…、さっき、どうしてあそこ(玄関)から先までいけないのか、ここに来れたのか分からないと言っていたけど…。”
”君をここまで、動かした”何か”は、きっと、君の中にもあるんだと僕は思うよ…。”
”その”何か”は、きっと、君をあそこ(玄関)から先に連れて行ってくれると思うし、君も自分で、超えられると思う。”
”今の君なら、出来るし、間に合うかもしれないよ。”
一方的な思い込みかもしれないが、今の歩にできる精一杯の言葉で、青年に語り掛けた。
“うぅ…。”
“ありがとうございます…。”
俯きながら、青年は震えた声で静かに答えた。
“すみません…、でも…、まだ…ちょっと…”
”すみません…。”
”うぅ…。“
青年はそう言って、反対側へ向きを帰え、走り出した。
“…え?…ねぇ、ちょっと!”
歩は、遠ざかる青年の背中に向かって声をかけ続けたが、青年の背中はどんどん小さくなり、道の向こうへ消えていった。
”…。”
しばらくして、歩は、青年が去った道の方角から、歩が来た道の方角へゆっくりと向きを変えた。
”あの青年…、おばあさんに会えるかな…。”
歩は、歩きながら思う。
ふと、青年が歩に向き直った時の、涙を堪えた笑顔が浮かんだ。
いや、あの青年なら、きっと会えるさ。
心の中で、一人呟く。
土手へ上がる階段を上り、再び、散歩道へ戻った。
歩が行く先に、土手の木々が見えた。
土手の木は青空に向かって大きく枝葉を広げ、西側から吹く風を全面に受け、枝葉や幹を軽く揺らしていたが、力強くそこに落ち着いていた。その力強さを感じさせたのは、地上の枝葉以上に、深く、大きく地中に広がり、幹を支えている、見えない根の大きさを、地上から見える木の大きさを通して感じたからであった。
(次号へ続く)
※本日もお疲れ様でした。
社会の片隅から、徒歩より。
第17話。
第1話はこちらから。
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