見出し画像

アドバイスって危ない、怖い



私にとって、「こうした方がいいよ」「こうしなよ」というアドバイスは責められているのにかなり近い。
「こうした方がいいよ(=今のままではだめだ)」
「こうしなよ(=あなたのやり方は悪い)」
という風に裏の意味を感じてしまう。

これが通行人から言われたなら「うるせえよ、私の人生になんの影響があるんだよ」と強がることができるけど、
親戚だとか、ちょっと疎遠ぎみな友達とか、微妙に親しい人から言われるとそりゃあもうダメージである。

もちろんこれはちょっと大げさで、ありがたく受け取れるアドバイスもある。
でも、相手が「絶対にこうした方がいい」と強く思っていればいるだけ、私はしんどくなる。

本当に困っているときに「こうしてみるとか?」「この方法はどうだろう?」と一緒の目線でいろんな道を探してくれるのは本当にうれしいのだけど、「絶対これがいい」という強い思いをぶつけられると、かなり消耗する。

そして、疲れるだけでなく、自己肯定感がとても下がる。
私にとって自己肯定感は一定のものでなく、エネルギーのように消費されたり、充電したりするものなので、誰かに「おまえはだめだ」というニュアンスを伝えられ続けると、とっても下がってしまう。
まあ当たり前か笑。

はっきりと消耗したときの状態が違うので、自分が何で傷ついたかはわかるようになってきた。
やはり私はアドバイスや「おまえはこういう人間だ」という強い決めつけをされたとき、自己肯定感が下がる。

これに対処するために、他人からの「こうした方がいい」というアドバイスや、「おまえはこうだ」という意見を心のうちに入れない、という練習が必要だ、
他人の言葉を私が受け取るかどうか、チェックする関所があるようなイメージで人と関わってみたりしている。

しかし、このイメージを持って、自分の内部に入れるか入れないかを自分で判断することの一番の懸念点は「独善的にならないか」だ。
それは、まだ模索中なポイントではあるが、「嫌な気持になるアドバイスはその時点で正しくないのでは」という考えを最近は採用している。

確かに、自分でも認めるのが嫌で、痛いけど、でも認めなければいけなかったことを言ってもらうこともある。
でも、その場合、「嫌な気持ちになってもなお、そのアドバイスを受け止めたいと思うほど信頼がある人」が言ってくれたアドバイスなのではないか。

痛くても、耳をふさぎたくなることでも、心から信頼している人から言われたら、全く聞かないことは難しいだろう。

逆に言えば、それほどの信頼がないのに、内部にずかずか入ってくる発言をする人はやはり、礼儀を欠いているのでその人の言うことを聞く必要はない。

アドバイスは伝え方、伝える人、内容、すべてを含んでアドバイスなので、たとえ内容が真実でも、どこか一つ引っかかれば聞かなくていいんだ、と思うことでずいぶん楽になった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?