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「幸せ」か「不幸せ」か。境目をつくるのは自分の心―『菜根譚』 

貪欲に心がおぼれると苦しみの海になる

「真の幸せとは何か」。
 中国思想の研究者、湯浅邦弘大阪大学名誉教授(以下、湯浅先生)のテキスト『別冊100分de名著「菜根譚(さいこんたん)×呻吟語(しんぎんご)」』をもとに「幸せ」について考えるシリーズ。5回目です。

 さて、財産や地位によって得られるものは、「真の幸福」でない。だとしたら、何が「真の幸福」をもたらしてくれるのでしょうか。
 著者の洪自誠が述べるところをみていきましょう。まずは現代語訳から。

 人生の幸・不幸の境目は、みな人の心が作り出すのである。
 だから釈迦もいう、「利欲に向かう心が強すぎると、さながらそれは燃さかる炎の海。貪欲に心がおぼれてしまうと、さながらそれは苦しみの海。心を少し清浄にすれば、火焔も池となり、はっと目覚めれば、苦海を渡る船も彼岸に至る」と。
 心持ちが少し異なるだけで、こうも境界が異なってくる。よくよく考えなくてはならない。

次に読み下し文です。

人生の福境禍区(ふくきょうかく)は、皆念想(ねんそう)より造成す。
ゆえに釈氏(しゃくし)云う。
「利欲に熾然(しねん)ならば、すなわちこれ火坑(かこう)。貪愛(とんあい)に沈溺(ちんでき)すれば、すなわち苦海(くかい)と為(な)る。一念清浄(いちねんせいじょう)ならば、列焔(れつえん)も池と成り、一念警覚(いちねんきょうかく)を覚すれば、列焔(れつえん)池と成り、一念警覚(いちねんきょうかく)すれば、船も彼岸に登る」と。
念頭(ねんとう)稍(やや)異なれば、境界頓(とみ)に殊(こと)なる。慎しまざるべけんや。

別冊100分de名著「菜根譚×呻吟語」

「幸せ」と「不幸せ」の違いは、どこから来るのか。
人の心がつくりだすものだ、心の持ち方次第だ、ということですが、その説明に引用されているのが、釈迦(釈尊)の言葉でした。

「利欲に向かう心が強すぎると、さながらそれは燃さかる炎の海。
貪欲に心がおぼれてしまうと、さながらそれは苦しみの海」

  いま以上の富や地位が手に入りそうなとき。
 あるいは、特定の人しか入手できないものをゲットできる可能性があるとき、たとえば、コンサートのチケットや骨とう品や限定品。事業でいえば、利権や特別な役職。公平な競争であるコンペも、時にはその対象になるかもしれません。
 利欲や貪欲という言葉には、お酒や賭け事、色恋におぼれることも、含まれるのでしょうか。

 それ以外にも、自分に起因したものでない禍、不幸はやってきます。
 地震や豪雨、大雪などの天災(天変地異)。不慮の事故や火事の延焼など。あるいは、詐欺や窃盗に遭う。友人に裏切られる、といったこともあります。

 そうした不遇に直面しても、心の持ち方次第で、取り巻く状況は違ってくると、釈迦は諭しています。たとえば、心を少し清浄にすることで、たとえば、はっと目覚めれば、というように。
 とても、説得力がある言葉です。

 仏教思想にも通じていた『菜根譚』の著者・洪自誠の考えを、湯浅先生は次のように解説されています。

「幸せ」と感じるか、「不幸」と感じるかは、白分の心の持ち方次第なのです。(略)同じものをちがう方向から見ているだけなのかもしれません。
 悪い面しか見ていないときには、良い面は目に入らないし、良い面だけを見て浮かれているときには、危険な側面に気がつかないことがあります。

お金がない、健康でない、学歴がないの「三重苦」。

 この話で思い浮かぶのがパナソニック創業者、松下幸之助さんの人生です。松下さんは、何度かの九死に一生を得た経験を通じて、自分は強運ではないのかと悟り、初期の結核を患いながらも、運命を前向きに受け止め、生かしていったといいます。
「人生心得帖」の「与えられた運命を前向きに生かす」の項で、松下さんは、自分の置かれている境遇と、その受け止め方について、次のように述べています。

  • 家が貧しかったために、世の辛酸を多少なりとも味わうことができた。

  • 体が弱かったがために、人に頼んで仕事をしてもらうことを覚えた。

  • 学歴がなかったので、常に人に教えを請うことができた。

 お金がない。健康でない。学歴がない。
「三重苦」の人、松下幸之助。
 自分はほかの人より恵まれていない、と受け止めてしまえば、「不幸せ」だとなりますが、松下さんは常にその反対側、恩恵に目を向けていた。「幸せ」を感じやすいように生きたのです。
自ら運を切り開き、「強運だ」と信じることで、「強運」の人になっていったのでしょう。

「不幸だ」と思い込んでしまえば、「幸せ」は逃げていってしまう。
「幸せ」と感じるのも、「不幸せ」だと感じるのも、自分の心の持ち方次第で決まる。そういうことなのですね。


『菜根譚』著者:洪自誠(こうじせい)。
書名は、宋代の王信民(おう・しんみん)の言葉「人常(つね)に菜根を咬みえば、則ち百事(ひゃくじ)做(な)すべし」に基づいています。「菜根」とは粗才な食事のことで、そういう苦しい境遇に耐えた者だけが大事を成し遂げることができる、ということです。


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