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過ちを指摘してくれる人に感謝できますか? ―『呻吟語』

反省する前に、反感が先に立つのはなぜ

「あなたからそんなこと言われる筋合いはないよ!!」。 

 ミスや失敗を指摘されたとき、相手に対する憎しみや反感が先に立ってしまう。そうことありせんか? 
 
 自分を見つめなおし、反省すべきなのに。ミスをしてしまったという負い目、心の傷があるから、できるだけそこに障られたくない。そういう深層心理が働いているところへ、日頃あまり尊敬していない人や、口達者な人から、厳しく口調言われると、「反省」の前に「反感」→「復讐」というふうに心が動いてしまいます。

 親しい間柄の人間から指摘されたときも、微妙な心理になります。自分のことをよく理解してくれている人だと思っていたのに、何だよお前も敵に回るのか、と。こうなると、被害妄想に近いです。

 このことに関して、中国古典の『呻吟語(しんぎんご』が実に鋭いことを言っています。

 私の過ちを指摘してくれる人は、必ずしもすべてに過ちのない人とは限らない。
 そもそも過ちがまったくない人が、忠告してくれるのを待っていたら、一生涯、自分の過ちに気づかないことだろう。

参考までに読み下し文です。

我の過ちを攻むる者は、未だ必ずしも皆過ち無きの人にあらず。
苟(いやしく)くも過ち無き人の我を攻めんとことを求むれば、則(すなわ)ち身を終うるまで過ちを聞くを得ず。

湯浅邦弘著ビギナーズ クラッシクス 中国の古典『呻吟語』

 過ちを誰から指摘されたのか。
 そのことにこだわってしまうと、過ちを改める機会を失してしまいます。
そういう言動を繰り返すことが、長い目でみたときに、どうなのか。自分の成長につながっているのか。

 ミスや失敗をした原因は、自分に以外にもあるのかもしれませんが、当事者あるいは関係者のひとりとして、冷静に自分に向き合ってみる。
 そうすれば、おのずと答えは出てくるはずです。

入門したことのない師匠を得たことと同じ

 だからね、と『呻吟語』の話は続きます。

自分に忠告しれくれる人がいるという、ありがたさを考えるべきだ。
相手に過ちがあるかどうかは、問題などではないのだ。

次に読み下し文です。

我は当(まさ)に其の我を攻むるの益を感ずべきのみ。彼に過ち有ると無きとは、何ぞ計るに暇(いとま)あらんや。

湯浅邦弘著ビギナーズ クラッシクス 中国の古典『呻吟語』

 忠告してくれる人がいることを、ありがたく思わなくては!!
 人生の師に導かれて、というのが理想ですし、そうなるべく、人との縁は大切にしていきたい。

 ただ、ここで言っているのは、そういう決定的な出会いができなくとも、人として成長するチャンスはある、ということ。

 人の忠告を聞き入れて、反省することは自分を磨くことになる。
 だから、それは「入門したことのない師匠を得たことと同じ」だとういうのです。

 この言葉を最初に読んだときには、ピンをきませんでしたが、繰り返し読んでいるうちに、作家の吉川英治さん(故人)が言っていた言葉を思い出しました。

我以外人生みな師。

いい見本か、悪い見本かは別にしても、まわりにいる人の生き方から学ぶことがある。
そういう視点でいえば、まわりにいるすべての人が、師匠に思え、耳に痛いアドバイスや忠告も、まずは聞いてみよう。そういう気持ちになってきませんか?


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