そうだったのか、「自力」も「他力」も「仏の力」によって救われるのだ
仏の助けによって救われるのは、「自力」か「他力」か
日本の仏教でよく出てくる教えに、「自力」と「他力」があるのですが、解説を読んでもよくわからないところがありました。
その違いについて、少しはわかったような気になったのが、仏教思想家・故ひろさちやさんのテキスト『わからないことがわかるということが悟り』(NHK100分de名著ブックス)です。
難解とされている道元禅師の『正法眼蔵』を、わかりやすく解説した番組をもとに、再構成したものですが、禅の基礎知識がほとんどない私でも、読んでみると、そういうことなのか、と頭にすうーっと入ってきたのです。
テキスト『わからないことがわかるということが悟り』を引用しながら、その違いをみていきましょう(引用部は適宜神田が編集しているところがあります)。
「自力」という言葉を、ふだんは100%の自分の力(人間の力)によるもの、という意味で使っています。ところが、仏教ではそれは違う、ということから、とひろさちやさんは解説されています。
自力と他力というときに、よく誤解されるのですが、自力を100%の自分の力(人間の力)によるものだとすれば、それは仏教ではないし、宗教ですらありません。
仏教においては、自力も他力も、究極的には仏の助けによって救われます。
「猿の道」と「猫の道」との違い
そこで登場するのが、インドのヒンドゥー教の譬え話、「猿の道」と「猫の道」です。
母子でいるところで敵に襲われたなら、母親はどうやって子を助けるのか。その対処の仕方が、猿と猫では異なり、それが「自力」と「他力」の違いそのものだというのです。
まず「猿の道」です。
敵に襲われたとき、小猿は母猿のお腹にパッとしがみつくので、母猿は小猿をしがみつかせた状態で、敵から逃げていきます。小猿は、母猿にしがみつく、ということ自らやっている、これが「自力」です。
次に「猫の道」です。
敵に襲われたとき、母猫は子猫の首根っこをくわえて運んでいきます。子猫は自ら母親にしがみつく、ということをしていません。母親が自ら子猫を助ける行動をとっている。これが「他力」です。
仏教では、最初に「仏の力」の働きかけがあって、その上に自分の力を加えていくのが「自力」で、一方で、すべてを仏の力に委ねるのが「他力」である、ということ。
ヒンドゥー教の譬え話に準じれば、猿も猫も、いずれも母親によって救われるわけですが、母親が子供を救うためにやっていることが、「仏の力」ということになるわけです。
「自力」で地獄からの脱出を図った主人公
ひろさちやさんは、「自力」と「他力」の違いを小説『蜘蛛の糸』をもとに、ご自身の想像も交えて、こうひも解いています。
大泥棒で多くの凶悪な罪を犯した犍陀多(かんだた)は、地獄に落に落とされてしまいました。極楽から地獄の様子をみていた釈迦様が、犍陀多にも善行があったことを思い出し、蜘蛛の糸をおろしてあげるます。犍陀多は目の前に降りてきた蜘蛛の糸に気づき、これを手繰っていけば、地獄から抜け出せるにちがいない、と蜘蛛の糸を自分でつかみ、上へと上っていきます。
この自分の力で上ろうとするのが、「自力」です。
道元が説いたのは、自分のすべてを仏の世界に投げ込めば、仏のほうから力が働き、それに随っていけば、心労もなしに仏になることができる、ということでした。「自力」の仏教です。
「他力」で地獄から脱出するには?
それに対して、「他力」の仏教を説いたのが、法然と親鸞でした。
彼らなら、蜘蛛の糸がおりてきたときに、どういう行動をとるのでしょうか。ひろさちやさんは次のように仮説を展開します。
親鸞なら、どうするか。
「蜘蛛の糸をおろしてくださって、お釈迦様ありがとうございます。しかし、私はこのまま地獄にいることにします。そうすると、地獄にいる私をあわれんで、阿弥陀仏が私に救済の手を差し伸べてくれるでしょう」というに違いありません。
法然なら、どうするか。
降りてきた糸を自分の腰に結び、「巻き上げてください」の合図として、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える。それで、巻き上げてもらって、地獄を抜け出す。救われる。
それが本願他力だ、というところで、ひろさちやさんの解説を締めくくっています。
「仏の力」のもとで、「自力」も「他力」も救われるということですが、その「仏の力」が働かなくなるときがあります。その顛末を描いているのが、『蜘蛛の糸』の結末です。
自力で上ろうとした犍陀多は、後から蜘蛛の糸にしがみついた何百、何千という罪人が、行列になって近づいてくるに気づきます。その様子をみて、蜘蛛の糸が切れてしまうと恐れるあまり、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。下りろ。下りろ」と大声で叫ぶのです。そのとたんに、蜘蛛の糸が切れてしまい、地獄に落とされてしまいます。
犍陀多は「自力」によって救われかけそうになったのに、最終的には救われなかったのはなぜか。
『蜘蛛の糸』では、その理由を次のように語っています。
自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、お釈迦様の御目から見ると、あましく思召されたのでございましょう。
自分の利益しか考えていない、無慈悲な人を、お釈迦様は救ってはくれない。それが、「自力」であろうと、「他力」であろうと。
お釈迦様でなくとも、現世においても、自分の利益しか考えていない人間のことは、困ったことになっても、誰も救ってくれない。ですよね。
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