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「幸せ」は「天」が授けてくれる。心のねじけた人には禍が降りる―『菜根譚』 

天は無心であるところに対してまごころを開く

「真の幸せとは何か」。
中国思想の研究者、湯浅邦弘大阪大学名誉教授(以下、湯浅先生)のテキスト『別冊100分de名著「菜根譚(さいこんたん)×呻吟語(しんぎんご)」』をもとに「幸せ」について考えるシリーズ。3回目です。

前回は、「幸せ」を感じるために、東洋思想的なアプローチの1つに触れました。「理想」を引き下げて「現実」に近づけるほど、「幸せ」を感じやすくなる。それを突き詰めたのが、『老子(ろうし)』の「無為自然(むいしぜん)」。ただ、現代文明のなかで不便のない生活をしながら、「無為自然」を実践するのは、万人向けとはいいがたい、ということでした。

では、現実と折り合いをつけながら「幸せ」を感じことができる、東洋思想的なアプローチとはどういうものなのでしょうか?

湯浅先生よれば、その考え方に触れているのが『菜根譚』と『呻吟語』とのこと。テキストにしたがって、まずは『菜根譚』の幸福についての考え方から見ていきます。ただ、反語的な問いかけから話が始まるので、面食らうというか、多少回りくどい感じを受けます。
ともあれ、現代語訳から。

貞節な人は幸福を求めようとすることさらな気持ちはない。だが天はその無心であるところに対してまごころを開く〔幸福を与える〕のである。
心のねじけた人は、災禍を避けようと必死に小細工を弄する。だが天は、その作為に対して精神を奪う〔災禍を降す〕のである。
これにより、天のはたらきは最も神妙で、人の小細工などは何の役にも立たないことがわかるのである。

次に。読み下し文です。

貞士は福をもとむるに心無し。天は即ち無心の処に就きて其の衷をひらく。
儉人は禍を避くるに意を着(つ)く。天はすなわち著意(ちゃくい)の中につきてその魄(はく)を奪う。
見るべし、天の機権(きけん)は最も神(しん)にして、人の智巧(ちこう)は何ぞ益あらんことを。

『別冊100分de名著「菜根譚×呻吟語」』

「天はその無心であるところに対してまごころを開く」、つまり「幸福を与える」ということです。
 この言葉をもとに、湯浅先生は、『菜根譚』の面白いところは、善行ではなく、「無心.無為」を評価している点にある、と語っています。

 中国には、古典的な「天」信仰がある、ということです。それは、人の善意や善行に対して天が幸いを降し、人の悪意・ 悪行に対して天は禍を降す、とするもの。

 著者の洪自誠が説く「幸福感」は、それに基づいていて、自分から幸せになろうとことさら求めてはいけない。「天」が幸福を授けてくれるのだから、ということになる。
 不幸を避けようとして、ジタバタしないほうがいい。天から降りてくることを受け容れなさい。「無心.無為」であれば「幸せ」が、そうでなければ「禍」が降りてくる、と受け止めるのがよさそうです。

 湯浅先生は次のように解説されています。

 これは「無為自然」を説いた道教の考え方に近いと言えます。とはいっても、『老子』のような世捨て人的な生き方を推奨しているわけではありません。

富や名声は浮雲のようなもの

 続いて、『菜根譚』が説く「幸せ」についてみていきます。まずは現代語訳から。

富や名声を、あたかも浮雲のようなものとみなす気風があっても、けっして深山幽谷に隠れ住むようなことはしない。
山水を愛好する癖が不治の病となるようでなくても、常に酒や詩を楽しむ風流の心を持っている。

 つぎに読み下し文です。

富貴を浮雲にするの風ありて、しかも必ずしも岩棲穴処(がんせいけっしょ)せず。
泉石(せんせき)に膏肓(こうこう)するの癖なくして、しかも常に自から酒に酔い詩に耽る。

『別冊100分de名著「菜根譚×呻吟語」』

 湯浅先生によれば、『菜根譚』の著者・洪自誠が、社会のなかで人々とともに生きながら「幸せ」を得ることをめざしていたことが、この条を読むとわかります、とのこと。

 現代に生きるわれわれの人生観に近いものがあり、参考になりそうです。
 一方で、「財産や地位は、実態のない、頼みにならないものだ」とも語っています。財産や地位と「幸せ」の関係について、次回はみていきます。


『菜根譚』著者:洪自誠(こうじせい)。書名は、宋代の王信民(おう・しんみん)の言葉「人常(つね)に菜根を咬みえば、則ち百事(ひゃくじ)做(な)すべし」に基づいています。「菜根」とは粗才な食事のことで、そういう苦しい境遇に耐えた者だけが大事を成し遂げることができる、ということです。

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