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ガラスを割らなくなった子どもたち

最近、「荒れた」学校が少なくなったと感じます。
私が新任のときに赴任した学校では、服装違反はもちろん、あちこちで突然喧嘩が始まって、職員総出で止めに行くこともしばしばでした。
そのくらい激しい喧嘩だったのです。
また、窓ガラスの割れ方もひどいものでしたし(当時のガラス屋さんは結構稼いだでしょう)、消火器を廊下に放出する者もいました。
ひどいときには中庭をバイクで走るという暴挙に出る「元気者」さえもいました。
そう考えると、今の生徒は実に素直でまじめです。
授業中に抜け出す生徒もずいぶん減りました。
同じような傾向は近隣の中学校でもみられるようですが、私が令和以後に勤務した中学校では授業中の集中度はどこの学校にも負けないものがありました。

反面、不登校や精神的に不安定になりやすい生徒が増えていると感じます。なぜ、「元気者」的な生徒が減り、心が不安定な生徒が増えたのでしょう。簡単に答えが出せる問題ではないですが、そこには「自己肯定感」が大きく影響しているように思います。
社会学が専門の土井隆義氏は、次のように指摘しています。

「直感に根拠づけられた純粋な自分は、一貫性を保ち続けることが難しくなる。その時々の気分に応じて、自分の根拠も揺れ動くからである。だから彼らは、その不安定さを少しでも解消し、不確かで脆弱な自己の基盤を補強するために、身近な人びとからの絶えざる承認を必要とするようになる」

土井隆義(2016)『友だち地獄』ちくま書房新書、131頁

簡単に言うと、かつては社会全体にある程度あった「これが正しい」という価値が薄まったために、自分の行動の根拠を自分の中に求めなければならない時代になりました。
でもその根拠は自分だけがそう思っているだけかもしれませんから、非常に不安定で脆弱なものにならざるを得ません。
だから絶えず「あなたは正しい」「あなたはよくやっている」と身近な誰かに言ってもらわないと不安でしょうがない、ということです。

そうした承認を得るためには、周囲からできるだけ浮かないように、絶えず空気を読み続けなければいけません。
浮いてしまうと友だちからの承認が得られなくなり、さらに自信を失うことになります。
土井氏の分析によれば、最も身近にいる友だちから承認を得られなかったり、教師から些細なことで注意されたりしただけで、まるで全人格を否定されたように感じる子が増えているのは、社会規範などの拠り所を失って子どもたち(若者)の自己肯定感が低下したからだということになります。

逆に、校内暴力を続けていた生徒は、尾崎豊1)の「15の夜」の歌詞を借りるまでもなく、教師を社会の体現者としてとらえ、社会への反発として行動していたとも考えられます。
社会に確固たる価値観があるからこそ反発も可能となります。
いわば、彼らの反発は彼らなりの正論と自信の証だったということもできます。
最近、学校の窓ガラスが一晩のうちに何十枚も割られるようなことは滅多に起こらなくなったのも、こう考えれば理解できるような気がします。
その代わり、子どもたちは、その分のエネルギーを自分の内側に向けて、心というガラスを壊し始めているのかもしれません。

かといって、価値観の多様化に歯止めをかけることはできません。
むしろ、価値観が多様化することによって、多くの自由が与えられ、すべての子どもが平等に扱われるべきだという考え方も広がっています。
このことは、これまで固定化された価値観に苦しんでいた子どもにとっては希望が持てる時代になったとも言えます。
価値観の多様化は、社会全体が自由と優しさを求めた結果だとも言えるのです。


このように考えてくると、私たちが目の前の生徒たちに対してどのように関わればよいのかが少しだけ見えてくるような気がします。

拠り所がなくて不安でしょうがない生徒が増えたのなら、時間はかかっても、何度も何度も承認のメッセージをタイミングよく送り続けるしかありません。
「あなたは、承認されるだけの価値のある存在なのだ」ということを伝え続けなければならないのです。
そして、同じ「わからなさ」を持った存在として子どもと一緒に悩み、一緒に考えること、それが多様化社会の中での私たち大人の立ち位置であると思います。
大人がこれまでの当たり前を子どもに押しつければ、彼らの自信や自己肯定感はさらに削られていくでしょう。

私たちが「正解」を送って、子どもがそれを受け取る。
そういう一方通行の指導では、これから子どもたちは自分の「拠り所」を見つけることはできないのです。

1)尾崎豊(1965年-1992年〉:日本のシンガーソングライター。

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