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「ライターズ・ブロック? 無能なだけでしょ?」

四月十九日

八時起床。ティーバッグ三つによる濃い紅茶、ムーンライトソフトケーキ三枚。朝の叩頭礼拝。「強迫さん」が暴れる予感あり。

ライターズ・ブロックという言葉があるね。文脈によってかなり都合よく使われている観があって、ときに「格好良さげに」あるいは「弁解がましく」使われているが、ようするに「急に書けなくなったよぴえん、誰か慰めてちょ」ということか。気の向いた時に気の向いている間だけ書くような《日曜ライター》ではなく、食い扶持を得るための本職としてほぼ毎日何かを書き続けなければならない人がよく見舞われるようだ。「表現がだんだん紋切り型になっていくのに我慢できない」「何を書いても以前の作品の焼き直しにしか思えない」「まいかい同じことばかりでまるで金太郎飴じゃないか」などその<嫌気の理由>は様々らしい(残念ながらそれは客観的にも妥当な判断である場合が多い)。ライターズ・ブロックというこの「症状」は、他者診断としてはともかく、自己診断としては甚だ具合が悪い。というのも二流であれ三流であれ自称であれ書き手(ライター)という人種は往々にして自己愛過剰のわりに自信不足だからだ。だからもし「スランプらしいもの」に突入し、書くことに明らかな苦痛を感じ始めても、そう素直にやすやすと「これはライターズ・ブロックだ」などとは思えない。そういうのは村上春樹級の作家にしか相応しくないのではないか、自分の場合はただ単に能力不足あるいはもともとビニールプールくらいに浅かった才能が枯渇しただけではないか、と終わりなき悶々が始まる。私はライターズ・ブロックという言葉を聞くたび、イップス疑惑がささやかれていた藤浪晋太郎に落合博満が「技術が無いだけ」と一刀両断したことを思い出す。

昨日は、ジャック・デリダ『ハイデガー 存在の問いと歴史』(白水社)と徳永恂『現代思想の断層』(岩波書店)とヘーゲル『宗教哲学講義』(講談社)をとちゅうまで読む。
デリダがとりわけハイデガーの強い影響下にあるらしいことは知っていたけど、半信半疑だった。ハイデガー哲学の継承者を自称している連中のたいはんはそもそも「存在の驚異」に打ちのめされていないように思えるからだ。いかに大仰な知的身振りをしていても、「形而上学的存在者」による物語系から身を解き放とうとしない限り、戯れの域を出ない。デリダはハイデガーとほぼ同じ段差で立ち止まって考えようとしている。少なくともハイデガーの執着し続けた問題と真摯に格闘しようとはしている。「なぜ何も無いのではなく何ものかが存在しているのか」というこの《発問契機》にどのくらい誘惑されているのかはまだ分からない。彼もまた凡庸なハイデガー読解者の一人に過ぎないことが判明したなら、今後その著作を読むことはないだろう。「大人の哲学的言説はそれゆえ、ひとが存在の問いを真面目に受け止めていることを前提としています」(『存在の問いと歴史』)と語れるくらいだから、心配はなさそうだが。
そういえばきのう、図書館のすぐ隣にある書店(うつのみや)にはじめて入った。はじめてだったから記念として町田康『告白』を買った。

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