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生き物は嫌いだが、

三月二四日

一時起床。植物油脂由来のポーションをいれたコーヒーと芋けんぴ。隣の爺さんはもう帰ってくるだろう。残念ながらまだこの生き物はぴんぴんしている。もうこの日記で隣の爺さんについて言及するのをいい加減やめたい。私は自分の寝起きする場所のすぐ近く(半径約一〇メートル以内)に別の生物個体(哺乳類)が存在していることが許せない性質らしい。体質的な人間嫌いなのだ。というか生き物が苦手なんだ。

ポール・ナース『WHAT IS LIFE?(ホワット・イズ・ライフ?)生命とは何か』(竹内薫・訳 ダイヤモンド社)を読む。
著者は遺伝学者、細胞生物学者。真核生物の細胞周期がいかに抑制されているかを主として研究してきたらしい。ノーベル生理賞・医学賞ももらっている。ノーベル賞とは何かについては後日詳述するつもりだ。
宇宙史における生物(その定義はともかく)の存在は汚点であり、倫理的にも美的にも私には耐えがたいものなのだけど、生物を生物たらしめている化学機構や物理条件には興味が尽きない
学生時代、私は、分子生物学の授業を二度受けた。当時精神状態が悪く、自殺のことばかり考えていたため、とちゅうから授業に出ず、一度、単位を落としたからだ。担当していたのは相良一純という元気な先生だった。いまもいるのかな。
大学における「単位」とは、ある一つの科目を履修し一定の成績を修めると学校がくれるもので、それらを総合して一定の単位数に達しないと大学を卒業できないことになっている。当時このジャーゴンみたいな言葉が嫌いだった。「単位を落とす」とはすなわち単位をもらえなかったということ。むろん単位を取得することがすなわち学問を身に付けることではない。くだらない制度だなとは思う。でも制度とはおおよそそうしたものなんだ。誰もがシニカルに眺めながらも結局それに従属せざるを得ない「仕組み」。国家や家族という「共同体」もそうさ。

分子遺伝学にはセントラル・ドグマ(central-dgoma)と呼ばれる基本原理がある。一九五八年にフランシス・クリックという人が提唱した。科学史的には、ジェームズ・ワトソンと共同でDNAの二重螺旋モデル(ワトソン=クリック模型)を完成させた人として有名だ。
セントラル・ドグマとは、DNA分子の遺伝情報がRNA分子を介しタンパク質分子に伝えられるという一連の流れを大枠的に示したもの。DNA(deoxyribonucleic acid)は遺伝子の本体を成しているもので、デオキシリボースを糖成分としている核酸。RNA(ribonucleic acid)は糖成分がリボースである核酸。DNAの自己複製を「DNA複製(DNAreplication)」、DNAの遺伝情報がRNAに写し取られることを「転写(transcription)」といい、RNAからタンパク質が作られることを「翻訳(translation)」という。一部例外はあるものの、この原理はほとんどの生物に妥当し、いまでも有効である。

「生命」はどのようにしていつ発生したのかという問いには伝統がある。原始地球でたまたま形成されたコアセルベート(coacervate)にその起源を見るアレクサンドル・オパーリンの仮説(一九二三)は教科書でもよく紹介されている。
この問いの難しさは、「なぜ何も存在しないのではなく何ものかが存在しているのか(Why is there something rather than nothing?)」、あるいは意識のハードプロブレム(Hard problem of consciousness)にじゅうぶん比肩しうる。「解明」されてしまうと生き甲斐を失う科学者が多くあるのではないか。謎は謎であってもほしいという、この矛盾した願望。

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