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友情とは、互いの最悪な点を、愛せることである、

一月十八日

実際、哲学はそれ自身が宗教と同様、礼拝(祭祀)である。とはいえ、宗教と哲学とはそれぞれ独特な仕方で礼拝なので、それについてさらに詳しく述べなければならない。

G・W・F・ヘーゲル『宗教哲学講義』(山崎純・訳 講談社)

午後一時十五分離床。二度寝時間は約一時間三〇分。紅茶、三幸製菓チーズアーモンド八枚。さくや「街録ch」で戸塚宏をひさしぶりに見た。戸塚ヨットスクールの人だよ。自分と違う考え方をすべて「リベラル」と断じるその態度に「無教養の権化」を見た気がした。その単純な教育観や「種族保存本能論」については怒りというよりも憐みの方を強く感じた。八十を超えたこんな依怙地な老人をいまさら誰も「再教育」してくれないだろう。「知の更新(知的自由)」の可能性からも疎外されている人間を見るのは辛い。人の思考が硬直化(化石化)してしまう原因はいろいろあるけど、そのなかでもたぶん、「孤独感」は無視できないほどに大きいだろう。孤独感の強い人間はたいてい自尊心がもろくなっているので、「自分の正しさ」にことのほか執着しやすい。「自分以外はみんな馬鹿」といった戦闘的構えを続けているうちに、「人々の無理解と偏見にさらされている被害者」としての自分を進んで演じるようになる(そしてそのことに快楽さえ感じるようになる)。こうした痛々しい自己憐憫は世にありふれていて、私もしばしばそんな滑稽なポーズを取りたがる。だからこそ他人が似たようなことをしていると虫唾が走る。安倍公房風の比喩を用いるなら、「自分の耳垢の臭いを嗅がされている」ような気がする。『ワインズバーグ・オハイオ』で描かれている「グロテスクな人々」はだいたいにおいて孤独感に苛まれている。ところで「孤独感」と「孤独」は違うんだ。「孤独ではない私」などありえない(「私」の存在論的突出性はどんな「他者」とも比較不可能である)。「この世」にあっては「ひとりひとり」が「他者」から切り離されている独房のなかにいて、あの手この手で「自分の理解者」を見出そうともがいている。人間が「愛」とか「友情」とか呼ばれているものに第一級の価値を置きたがるも、彼彼女らが「端的に孤独」だからだ。(歌謡曲の文句みたいだが)嘘でもいいから「私は一人じゃない」と信じたいのだ。私はどんなに親しい人といるときでも孤独を感じている。「言葉の通じなさ」「分り合えなさ」に苦しんでいる。でもこれは間違いなく「私だけの問題ではない」。「誰もが等しく孤独地獄のなかで喘いでいる」。その点で私は安心もしている。

吉田裕『日本人の戦争観(戦後史のなかの変容)』(岩波書店)を読む。
戦後日本において、「戦争責任」がどう論じられ、どう果たされてきたのかを記したもの。一九四一年から一九四五年にかけて行われた日本の戦争を「アジア・太平洋戦争」と一貫して呼んでいたのが印象的だった。日本は対外的には、サンフランシスコ講和条約第十一条により東京裁判の判決を受け入れるというかたちで、「アメリカの同盟国」としての「国際的地位」を獲得した。いっぽう対内的には「戦争犯罪についてはきょくりょく言挙げしない」という村社会的な作法によって問題があいまいに処理された。こうした「ダブル・スタンダード」の成立経緯を素描する著者の筆は実に冴えている。とくに戦後日本の「戦記もの」ブームにおける「加害者意識の希薄性」を批判的に論じた章などは目から鱗。一九八九年に発表された『提督の決断』(光栄)というシミュレーションゲームのことは知らなかった。ゲーム内の設定のことでかなり強い批判を受けたという。いまでいう炎上だね。一九八九年といえば裕仁が死去した年でもある。私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、といった名言を残した人。

さてモヤシ炒め食うか。きょうこのあとどうしようかな。億劫といえば億劫なんだけど、死にたいような気分ではない。

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