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ユーモア、テクノロジー、淪落の人

二月十日

十一時起床。このごろ寝つきが悪い。床に就く直前まで活字を目に入れているからかも。ああ、寝ているあいだも本が読みたい。ところで「横になって眼を閉じているだけで疲れが取れる」という〈睡眠神話〉があるが、これは信じてもいいのかしら。
ジャン・コーの童話『ぼくの村』(花輪莞爾・訳 晶文社)ではいいフランス的エスプリを堪能できた。ラテン語の語源spiritus(空気、息吹)通り、からりとしていて知的洗練がある。
訳者の大雑把だが鋭い「定義」によれば、ユーモアが「シルクハットにコウモリ傘のロンドン紳士に表わされるような、謹厳で型どおりな人物が、型どおりには行かない場ちがいな場面にはみ出してきて、しかもその場で自分を押し通そうとするときのおかしさ」なら、エスプリは「ひじょうに自由で生き生きとして、型にはまりにくい個性的な人物が、型どおりの場にはめこまれても、なお自分を押し通そうするときのおかしさ」だという。
いずれにしても「型どおり」が要点らしい。前者についてはチャップリンの映画を思い出せばかなり納得できる。彼の喜劇を喜劇たらしめているのは、チャップリン演ずる紳士がいつまでも紳士のつもりでいることであり、それが観る者の笑いを誘わずにはおかないのだ。
ところでこの童話、全てのお話がほぼ「その日はいい天気でした」といった書き出しで始まる。この「紋切り型」の連発にも作者の「おどけた仕草」を見てしまう。
決して汽車には乗らなかったり、大量の蚊のつまった箱を解放して蚊に刺されたり、必要も無いのに上半身裸になったりするそんな探検家が登場する話があったけど、ここに風刺を感じるのは僕だけだろうか。現代の日本を見渡しても、こんな「らしさ」の自己演出は世にありふれている。わざわざ「不便な野外」におもむきテントを張って寝る人たちのなんと多いことよ。考えてみればこうしたこと自体が滑稽ですね。しかも何日もかけて現地まで歩いていくのかと思えば自動車でいくんだから。キャンプ用具や登山用品を一式揃えるのは大変な出費だ。「自然と戯れる」のにそんな大金を支払うなんて、アマゾンなんかの先住民からみれば馬鹿に映るだろうな。新手のギャグとさえ思うかも。まあそれだけ「自然から疎外されている」という意識が「現代人」には強いのだろう。現代は「大地喪失の時代」なのだ。だからどいつもこいつも「大地」を探し求めている。見出されるのは埋め合わせにもならない「疑似大地」ばかりなのだが。
ジャン・コーは、アルジェリア戦争期やコンド動乱期にジャーナリストとして走り回ったり、ジャン・ポール・サルトルの秘書をしていた人だ。『神のあわれみ』という長編作でゴンクール賞をもらったりもしている。
久保明教『機械カニバリズム』(講談社)も読了した。
プロ棋士とコンピュータが対局する「将棋電王戦」について論じられた章は、将棋の細かいルールを知らなくとも楽しめた(私は「ボードゲーム」がに苦手なのだ)。「コンピュータ将棋」との対戦のなかで人間棋士の戦法そのものが変容するという観点は、すでに当たり前のものになっている。今を時めく藤井聡太の快進撃もそんな「将棋ソフト」による研究なしではありえなかったと聞く。ただ私は棋界に不案内ゆえ、これいじょう何かを語りたいとは思わない。
「デジタルネイティブ世代」という言葉が「IT」や「ユビキタス」同様、(当たり前すぎて)古色を帯びつつある現在、テクノロジーと人間との相互作用はこんごもっと面白い展開を見せるだろう。当今にあって、「スマホ依存」や「SNS依存」は社会問題としてしか語られないが、ここまで来てしまうとどっちみちもう手遅れなので、いっそもっとスマホやSNSに皆どっぷり浸かって、「新しい思考様式」なり何なりを獲得すればいい。「自然への回帰」など人間にはそもそも望むべくもないのだから(そんな「自然」が有るか無いかはともかく)。
ブルーノ・ラトゥールの「アクターネットワーク論」が気になった。朝井リョウの『何者』も読みたくなった。
図書館ではジジェクとガタリ読む。

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