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「怒りの研究」の構想もしくは窮猫鼠を噛む的悲喜劇の予兆あるいはささやき女将のマネキン人形つまり憤怒の形相で踊りましょう

一月二十一日

昨日よりかは寝覚めがよくない。やはりたまには温泉にでも浸かったほうがいいのかもしれん。本ばかり読んで暮らしていると眼精疲労と厭世気分が知らぬ間に蓄積しているから。徒歩十五分以内に石引温泉という五木寛之も通った老舗温泉がある。露天風呂なんかぬるくて黒くて長時間はいっていられるいいところ。湯銭もそう高くない。週一くらいならじゅうぶん通える。しかるに冬季北陸の慢性的悪天候がそうはさせてくれない。帰途どしゃぶりなんか興醒めだ。いよいよ北陸に住むのが嫌になってきた。せいらいのdepressed moodがますます促進させられるいっぽうだもの。週末から北陸を中心に大雪となる見込みですなんていう気象予報があるたびウンザリを通り越して自爆テロでも起こしたくなります。雪の糞大馬鹿野郎はもうこれいじょう降るな。てめえらなんかい積もれば気が済むんだ。どうしてもなにか降らしたいなら金を降らせろ。ただしインフレになるといけないから俺のところだけ。

夜間に酒を呑むことがめっきり減った。なにはともあれ呑まない方が読書に割ける時間も増えてよいのだ。夜の読書は持ち本の読書だから、日中のライブラリー読書とは違って、青赤鉛筆で線を引いたり付箋(ポストイット)を貼ったり出来る。精読にこそ読書の醍醐味<real pleasure>があることはいまさら言を俟たない。
『啓蒙の弁証法』に加え、ジャン=ジャック・ルソー『告白』も読むことになった。河出書房の世界文学全集のなかの一冊で、井上究一郎による翻訳。井上究一郎といえばかつて仏文学界の権威だった人で、文学者のわりにずいぶん「官僚的」な人だったらしく、東大仏文科卒の立花隆が彼の事をどこかでさりげなく腐していたのを覚えている。
大学という世界は内側からみると嫉妬や権力闘争でドロドロであり、助手などへの教授のパワハラはときに物凄いらしい(たとえば中島義道『東大助手物語』参照)。
私もかつて地方のしょうもない工業大学に籍をおいていたので、教員間のヒエラルキーや力関係の「複雑さ」については知らないこともない。見るからに仲の悪そうな人たちもいた。人間なんていつまでも子供みたいなものなのです。おもえば近くで大学教授という生き物を観察できたことは有益だった。だいたい「研究一筋」なんて人はほとんどいないからね。かりにいたとしてもそんな人は学生の前には滅多に現れない。私の見た限りほとんどの大学教員は授業や資料作りにいつも忙殺されている。威厳も何もない。学生時代は学究肌剥き出しだった人も大学に採用されれば次第に俗人化してそのへんの塾講師みたいになってしまうのだろう。
少子化著しい昨今の私立大学において、学生は「お客様(学歴欲しさに不当に高い学費を払うカモ)」として手厚く遇される。思い返せば学生に厳し過ぎる理不尽教員などほとんどいませんでした。というかいまどきどんな教育業界でもそんな「昭和脳」な教員は採用されないだろうし、いたとしても早晩辞めさせられるだろうね。私が属した研究室の教授もごく穏やかな人で、いまもフェイスブックでたまに連絡を取りあっている。隠居生活にはいってもう久しいが。フェイスブックの利用世代の幅広さにはいまさらながら感嘆します。
「いまどきの大学教授」は自分たちの給料がどこから出ているのかをよく分かっているようだ。というか人によっては「罪悪感」さえ抱いているのかもしれない。自分たちが提供している「教育サービス」は果たしてあの高額な学費に見合っているのか、なんて。なにしろ借金をしてまで進学したがるビンボウな高校生が日本では約三人に一人もいるのですよ(学力不足のくせに)。四年制大学ともなれば何百万以上も借りることになるからね。大学院までいればその額はもっと増える(アナキズム学者の栗原康は六〇〇万円以上も借りていたらしい)。なかには有利子だってあるんだ。どう考えても借金のこわさを知らない「うぶな未成年」がのほほんと借りる額ではない。「家計が苦しいし」なんてエゴイスティックな理由でそんな多額の金を子供に借りさせる親は万死に値するだろう。なぜなら卒業後に就職し安定した収入を得られるとも限らないし、そもそも就職したいと思うとも限らないのだから。
おもえば大学三年の終わりあたりからどいつもこいつもアホみたいに就職活動をはじめていたが、私はそのころからすでに「働きたくない願望」をぼんやりと宿していて、読書と思索に生涯を捧げるにはどうしたらいいのかなんて考え始めていた。のっぺり顔のリクルートスーツ集団は奴隷志願者としか映らなかったし、履歴書は自分という労働力商品を売り出すための宣伝チラシにしか見えなかったし、「合同説明会」でブースを構えている企業連中の平板なおしゃべりは薄気味悪い自社宣伝でしかなかった。私にとって「就活」は嘔吐を催させるものでしかなかった。賃金を得たり金を稼ぐこと自体がひたすら「だるいこと」だった。というかそもそも生存していること自体が厭うべきことだった。アスシヌカモシレナイノニ、ナゼソンナクダラナイコトヲシナケレバイケナイノ? SHOVE IT!!!

イエスタデイは『ブコウスキー・ノート』と『ブコウスキーの酔いどれ紀行』を読む。前者の原題は「Notes of a Dirty Old Man」で後者の原題は「SHAKESPEARE NEVER DID THIS」、どちらの原題にもブコウスキーの名はない。ブコウスキーという名に即座に反応する信者的読者を見込んでのことだろうか。
チャールズ・ブコウスキーはまったくお行儀のよくないダーティーな文士だ。どんなときも過剰なほど「無頼の徒」を演じ続けた人だ。説教がましい連中や変に取り澄ました連中、あるいはいい子ぶった連中や綺麗ごとをほざきまくる連中には容赦なくアッパーカットをかましまくる。いけ好かないものにかたっぱしから唾と哄笑をあびせかける彼の破壊的ユーモアにはときに閉口させられるが、そこに見習うべき何かがあるのは確か。ただ中途半端に彼の「生き方」をマネすると尋常じゃないくらい孤立するかもしれないのでキャラ付けには多少の工夫は必要かもね。まあ、勝手に生きろ、ということだ。勝手に生きて、勝手に死ね。
おそらく彼は「古典」と崇められている読み物にはなんの敬意も持っていなかった。ルイ=フェルディナン・セリーヌを褒め称えジョージ・バーナード・ショーを散々こきおろすことからでも彼の文学的嗜好を察することが出来る。いっぽうで今週長い時間を共にしたボルヘスは『記憶の図書館』のなかで再三バーナード・ショーを評価していた。ボルヘスの教養は半端ではなく、文学を読むその眼はけっして節穴ではない(ばんねんは盲いたが)。作家によってこんなにも両極端に評価が分かれるバーナード・ショーの作品にどうしても興味を持ってしまう。ということで読みたい本がまた増えるのである。まこと慶賀に堪えません。

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