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オッケー、グーグル、人類の作り方を教えて

二月十六日

一二時五分起床。濃い目の紅茶淹れ、カナダのメープルリーフクリームクッキーをかじりながら、パソコン開く。このごろではだいたい十一時には目が覚めて、カーテンあけて、冬の明かり浴びながら、「二度寝」している。これがあんがい活力向上に効いているのかもしれない。睡眠を軽んずるものはいずれ睡眠に復讐される。今朝の起きしな「あるある探検隊」の声が脳内で繰り返されていたのはどういうわけでしょう。この日記もかれこれ六十日分くらいは書いているはずだ。気晴らし(憂さ晴らし)として、あるいは他の原稿に取りかかる前の肩慣らしとしても今では欠かすことの出来ない日課(routine)となっている。来年の今ごろには果たしてどのくらいの分量になっているだろう。手前味噌もいい加減にしないといけないが、読み物としてなかなか歯応えのいいものになっていると思いながら日々書いております。

深沢七郎が正宗白鳥とならんで、歌舞伎座で、「高時」を見たことがある。
あんまりおもしろくもなかったが、せっかく見たのだからお愛想に、「いい芝居ですね」とささやくと、身体をよじって深沢のほうに向き直って、じっと顔を眺めた。うっかり、いい加減なことをいえないと思ったそうである。

戸板康二『最後のちょっといい話』(文藝春秋)

谷沢永一の『紙つぶて』や戸板康二の「ちょっといい話」シリーズは開いたところを摘み食いできるので、重厚長大型の本を読むのに疲れがちの日はよくぱらぱらめくっている。僕にはあきらかに不足しているウィット成分とエスプリ成分も補えるし、のちのち書くネタとして「再利用」できたりもする。この種のぱらぱら読みに向いているものとしては他に、『ラ・ロシュフコー箴言集』やパスカルの『パンセ』、モンテーニュの『エセー』、ビアスの『悪魔の辞典』、『論語』、大岡信の「折々のうた」シリーズなどもある。丸谷才一のエッセイも知識密度高めなので、意外と摘み読みには適している。いまたまたま近くにあった彼のエッセイ集のたまたま開いたところに、

アメリカのジョンソン元大統領は、側近に物を贈るのが好きだった。特に電動歯ブラシを贈るのが好きで、これにはわけがあった。
大統領はあるとき、
「貰った相手は、死ぬまで、朝起きてまづわたしのことを思ひ、夜やすむ前にまたわたしのことを思ひ出すはずだ」
と語ったそうである。

丸谷才一『犬だつて散歩する』「残念な話」(講談社)

といふのがあって、このエッセイはまだずっと続くのですが、ここだけ切り取っても小ネタとして十分に面白いでせう。私などはこんな逸話を聞くと、「自己啓発書の不朽の名著」なんてやたらとビジネスパーソン界隈でもてはやされている、デール・カーネギー『人を動かす』(創元社)のことを想起しないではいられない。これを読んだのが二十歳頃だから記憶もおぼろげだけど、そのなかにたしか、「人に好かれる原則」として、人からさりげなく誕生日を聞き出し覚えておいてその日が来ると祝電や手紙を送るといいよ、そうすればきっとその彼彼女はあなたのことをずっと好きになるだろう、みたいな陳腐極まることが書かれていた。それでも当時は<初心>だったから、なにがしか「心に沁みた」のかもしれない。下手したら実践しようとさえしていたかも知れない。いまの私からすればそんな露骨な「人心掌握術」など糞喰らえだし、そんな技術を得意気に披露したがる野郎など張り倒す対象でしかないのけど。
という具合に、偶然に拾った小ネタからでもなかなか話は膨らむのだ。
振り返ってみれば私は、ユーチューブで動画を視ているときも、本を読んでいるときも、人と話しているときも、街中をそぞろ歩いているときも、つねにいつも「次に書く素材」を探す眼差しでいる。

清武英利『石つぶて(警視庁二課刑事の残したもの)』(講談社)を読む。
著者は、読売ジャイアンツの編成をめぐり渡邉恒夫(ナベツネ)を告発するといういわゆる「清武の乱」(二〇一一年)でよく知られている人だ。この著者のノンフィクションは政治や企業を対象にしたものが多く、暗部領域への踏み込み方が鋭いので、だいたいどれも読んでいて手に汗握る。文体がドライなのも助かる。人情深さの先行する湿っぽい文章が私は嫌いなんだ。この著者の数ある本のなかで読書人にもっとも馴染み深いのは、『しんがり(山一證券最後の12人)』だろう。一九九七年、「四大証券」の一つである山一證券が自主廃業を発表し店頭に顧客が殺到するなか、最後まで会社に踏み留まってその清算業務に就いた一群の「しんがり」たちを活写した、ノンフィクションだ。これはこれでエキサイティングな読み物だったけれども、私はいったいに金融業界の話が嫌いなので、『石つぶて』の方がずっと好みである。
これは、松岡克俊というノンキャリアの外務省職員が機密費を数億規模で詐取した事件の捜査過程を描いたものだ。要人外国訪問支援室室長であった彼は、総理外遊時の機密費をかなり自由に差配できる立場にあり、費用の水増し請求などを通して私服を肥やしていた。事件当時、外務省の機密費は「本省分」と「官邸上納分」の二つに分けられていて、松岡が詐取していたのは後者のほうである。けれどもこのへんは闇が深く複雑すぎて、読んでいても事件の相貌がよく掴めなかった。頭が悪くてすみません。
官房機密費の正式名称は「内閣官房報償費」といいます。内閣官房報償費は会計検査院規則によって領収書等の使途証明書類の提出を免除されているが、日本国憲法第九〇条第一項では「国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は、次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない。」とあり、そんな費目は認められていない。政府答弁つまりタテマエとしては「国が国の事務または事業を円滑かつ効果的に遂行するため、当面の任務と状況に応じ、その都度の判断で最も適当と認められる方法により機動的に使用する経費」とされているが、それらの見えない支出が「国益」に資するものであったか否かを最終的に判断することは「一般の国民」には不可能だ。だから一介の職員にまんまと流用されてしまう。政府中枢にはこの種の闇の資金がいったいどれくらいあるのだろう。機密費については、外遊議員への餞別に使われるとか、政治記者の懐柔策に用いられるとかいう話がよく知られているが、そんな「分かりやすい話」も、実態に比べればはるかに可愛いものなのかも知れない。
腹減りました。豆でもチンして食うか。

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