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「前向きな人間」が気持ち悪くて

二月二一日

十二時起床。雪が踝までくらいに降り積もっている。昨夜は床に就くちょくぜんまで『巨匠とマルガリータ』を耽読していて、その興奮のせいか寝つきが悪かった。上巻の半分くらいまでは予想したより凡庸と感じていたが、後半の魔術師のとこあたりからにわかに血沸き肉躍りはじめた。この作は著者の死後二十年以上も経過した一九六六年~一九六八年に順次発表されたものだ。執筆されていたのはスターリン独裁時代(一九二四~一九五三)である。だから風刺の類があるとしても、それはより巧妙に織り込まれていると見たほうがいい。「幻想小説」は得てして<真剣な遊戯>なのであり、それはわれわれが「現実」と呼び慣わしているこの既存意識こそ「幻想」の淵源なのだということを暗示するものなのだ。
紅茶、賞味期限切れのバナナチップ。起床後のてんてこ舞いはどうになからないか。もっと余裕を持って行動できないか。きょうから図書館通いがまた始まるので気を引き締めていかないと。まあ毎日引き締めてはいるけど、四時間以上座って読み続けるのはやはりどうしても体力が要る。いくらでも姿勢を崩してもいい部屋読みとは神経の使い方が違ってくる。それよりはやくジジェクとガタリの続きが読みたくてうずうずしている。
きょうは書くことがあまりない。ライブラリーに向かうのは二時と決めているので、時間制限もある。
時間といえば、もともと誰が言い始めたのか、「一万時間の法則」という俗説がある。「何かを極めたければ一万時間の修練は必要だ」なんて<意識高い系>の人たちがのたまっているのを見たことがないですか。私などはつい「たったそれだけでいいの」と思ってしまうのだけど。きっとこの俗説は、どこかのビジネス書の一部が人から人へわたるうちに単純化したものだろう。よくあることだ。古典に限らず、書物についての言説で世に流通するのたいてい、「分かりやすすぎる要約」なのである。「本の要約サイト」なんて野暮なものが繁盛するこの時代にあっては尚更この傾向は顕著になる。
それにしても、口を開けば時短だのコスパだの効率化だのスキマ時間活用だのと小賢しい言葉を吐き散らす、こんな気忙しい小人どもと同時代人であることを、残念に感じない日はありません。堀江貴文は「死の恐さ」をただひたすら行動することで忘れることにしたという。そんな彼が「時代の寵児」としてもてはやされたのは偶然ではないかもしれない。爛熟したこの資本主義時代において、つまり誰もが大なり小なり「ビジネスパーソン的」に思考せざるを得ないこの時代において、「愚直なほどに前向き」であることは「生産的」である。ビジネスを順調快活に進める上で「苦悩」や「内省」などはむしろ阻害要因でしかない。「哲学(思索)」にいたっては「時代に逆行するもの」でさえある。なにしろ哲学を知ってしまった人間は放っておくと、「どうして一日の大半を労働などに身を捧げなければならないのか」とか「こんな娑婆苦の絶えない世界に子を産み落としていいものか」とか「そもそも意識はなぜ存在しているのか」などと七面倒なことを考えはじめ、しまいにはその場に座り込んで梃子でも動かなくなってしまいかねないからだ。

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