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盗んだバイクで走り出す中年、まりも君爆殺事件、「隣人」を助けることは人間の「絶対的義務」である、不都合な真実たち、

三月二十日

現代は「社会的に望ましいコミュニケーション・コード」の要求値が、過去とは比較にならないほどに高まっている。その側面を軽減することが期待される一方、人権感覚のアップデートが追いつかない人(ドメスティックな領域に関していえば封建的・家父長的な規範意識に基づいた言動を展開する人など)に対する排除を伴うものである。そんな「未開の野蛮人」は孤独に死んでも仕方ないとする社会的合意がなされていれば、多くの人にとってそれは問題ですらないのかもしれないいが・・・・・・。

御田寺圭『矛盾社会序説 その「自由」が世界を縛る』「07 「無縁社会」を望んだのは私たちである」(イーストプレス)

午前十一時三十分。黒液体、源氏パイ三枚。このごろこの日記に隣の爺さん登場し過ぎだね。書いてる俺がもうすでにうんざりしている。もともと俺は形而上学的なことにしか興味ないんだから。何が悲しくて俗世間のこんな薄汚い老人についてこれほど文章を連ねないといけないんだ。でもあったことはきょくりょく書かねばならない。いちおう金を貸してるから備忘録も兼ねて。残高不足で家賃が引き落とされず大家から退去をちらつかせられているという。たぶん滞納は許さないという「おどし」だろう。行き場のない老人を「強制退去」させるのは実務上そんなに簡単なことではない。糞ったれ大家は相手が「身寄りのない情弱老人」だからそういう「おどし」でも有効だと判断したんだろう。でもいちおう6000円貸すことにした。17000円+6000円で23000円。ある時払いの催促なし。返せなかったら返さなくてもいい。金は誰のものでもない。というか私はそもそも私的所有権というものを認めていない。宇宙は宇宙のものであり、地球は地球のものだ。俺は「金の貸し借り」が死ぬほど嫌いだ。債権者と債務者の関係はそのまま支配者と被支配者の関係になるからだ。おごる人とおごられる人の関係でさえそうなりやすい。いつも金のないやつに飯をおごっているやつがどれほど傲慢不作法になりやすいか、いつも金のなかった俺は嫌になるほど知っている。雨露をしのいだり飯を食ったりするのにコストを支払うこと自体がそもそもおかしい、とちかごろの俺は考えている。カスミを食って生きられないことにひじょうな理不尽を感じる。「生物であること」にどうしても慣れることが出来ない。周囲の人たちが「生物であること」にそれほど苦しんでいないことに苦痛を覚える。前に、読みもしない新聞を二つも取っている爺さんに知能的問題があるのではないか、と書いたけど、そんな爺さんに二万円近く貸している俺にもかなりの知能的問題があるのかもしれない。ただ俺にとってこれは「親切心」ではないのだ。「絶対的義務」なのだ。カントなら「定言命法(Kategorischer Imperativ)」と呼ぶもの。相手が誰であろうが「困っている他者(隣人)」を助けるのはすべての人間の「絶対的義務」であって、「善意」などという気紛れで果敢ないものが介在する余地はそこにはない。私の「福祉」についての考えは基本的にこの義務観念の上に成り立っている。「隣人の支援は義務である」ということを理解していない人の多さに驚く。そのことでも俺は日々苦しんでいる。
日銀が金融政策決定会合でマイナス金利を解除し、政策金利(無担保コール翌日物)をマイナス0.1%から0~0.1%あたりに引き上げることに決めた。政策金利の引き上げは十七年ぶりという。長短金利操作すなわちイールドカーブ・コントロール(YCC)は撤廃、上場投資信託(ETF)と不動産投資信託(REIT)の新規買い入れも終わる。月六兆円ほどの長期国債買い入れは継続するみたい。日本の株価はいまや日銀が支えている、という声はよくきく。この異常な「買い支え」に株式関係者は慣れっこになってしまった、中央銀行による株価操作は「不健全」だ、と。こんごどうなっていくのか。日銀はもうすでにいくつかの企業の「大株主」になっている。市場が混乱しないようじょじょに売却していくのだろうか。

きょう祝日なんですね。図書館は人間だらけだろうけど行く。そのまえに郵便局のATMに寄らないと。おぼえたてのタバコをふかし、さいきん尾崎豊が頭から離れないのよ。誰にも縛られたくないと、この支配からの卒業。ソーダ水のなかを貨物船が通らない。花粉症の乙女たち。ああ乙女たち。

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