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なぜ何も存在しないのではなく、

四月二三日

午後九時半起床。まぶしい朝日を全身で感じながらフェイスブックのニュースフィードをチェック(もっぱらCNNとABCとWasington Postを読むため)。ツイッターもチェックといいたいとこだが、ツイッターでは町山智浩や内田樹や中田考などの投稿をたまに読む程度。ハイテンションあるいはこれ見よがしの短文ばかり読んでいるとだんだんムカついてくるから。自分の限られた印象としてフェイスブックもツイッターもすっかり老年ソーシャルメディアです。インスタグラムもやがてそうなるだろう。え、もうなってる? SNSとかかわる時間を半分に減らすだけで幸福感が増すとかいう疑似科学的な情報をこのごろ多く見かけるが、個人の実感としてそれは「正しい」。他人がどこそこで飯を食っただの旅をしているだのという情報はほんらい自分にとってどうでもいいはずだ。ときに変な妬みさえ起こしてしまうので目に毒ざんす。ところできょうはバーンスタインのマーラ五番を聴きながらこれを書いています。語弊を恐れながらいうなら、僕はマーラーシンフォニーの「映画音楽感」が好きだ。勇壮な疾走性があるんだな。

浅沼光樹『ポスト・ヒューマニティーズへの百年(絶滅の場所)』(青土社)を読む。「絶滅」という言葉に惹かれ、手に取り、最後まで読み通してしまった。
いまをときめくマルクス・ガブリエルや、カンタン・メイヤス―、マルティン・ハイデガー、カール・ヤスパース、田邊元、ウラジミール・ジャンケレヴィッチ、スラヴォイ・ジジェク、「哲学的ゾンビ」で知られるデイヴィッド・チャーマーズなどが取り上げられていて読み物として面白い。
著者の「専門」だからか、基本的な参照項としてかなり頻繁にフリードリヒ・シェリング(一七七五~一八五四)が登場する。シェリングといえばヘーゲルの露払い程度の存在だという先入見があった。そもそもヘーゲルに対しても「ひたすら雑な大風呂敷哲学者」という先入見があった。ふだんから「読まず嫌い」は良くないとか言っておきながらこれだからな。僕がこのごろヘーゲルの読解に取り組んでいるのは「へーゲリアン」ジジェクの影響で、彼なしでは依然としてヘーゲルはアウト・オブ・眼中だっただろう。カントにはじまりフィヒテ、シェリングを経てヘーゲルによって完成される(とされる)いわゆるドイツ観念論(deutscher Idealismus)についての概説は僕の手には負えない(そもそもこの呼び名になんらかの違和感がある)。いずれ彼らの著作とも格闘しないといけない。そのためにはドイツ語をもう少し読めたほうがいい。
というわけで、『シェリング著作集 第4a巻 自由哲学』(文屋秋栄)所収の「人間的自由の本質とそれに関連する諸対象についての哲学的研究」を読んだ。後期シェリングの主著とされるものである。「無底(Ungrund)」は、ヤコブ・ベーメ(一五七五~一六二四)にインスパイアされてのものだろう。この頃の彼の哲学的立場を積極哲学(positive Philosophie)という。「もの」の本質を問うだけにとどまる消極哲学(negative Philosophie)から一歩踏み出したものと見ていい。「なぜ何もないのではなく何ものかがあるのか」という問いもそこに含まれる。だから晩年のシェリング思想は二〇世紀に大流行した「実存主義」と親和性が高い。「なぜ何もないのではなく何ものかがあるのか」という問いに鈍感な者の思索を私は信用しない。この問いが「問い」として成立しているのか、そもそも「擬似問題(pseudo problem)」ではないのか、といった立ち入った話はさしあたりどうでもいいのだ。ここで重要なのは<哲学的感受性>であって他ではないのだから。

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