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いい年して「人間不信」なんて言うな、『のらくろ』の吹き出しの形が途中から変わっていることについて、盛り場を駆け抜ける爆弾犬、時をかける青年、

十月九日

シャボン玉の中へは
庭は這入れません
まはりをくるくる廻つてゐます

『月下の一群(堀口大學訳詩集)』ジャン・コクトー「シャボン玉」(新潮社)

午前十時起床。六甲学院体育祭「総行進」の映像を二〇分ほど見て、紅茶、キャラメルクッキー。いつもより早く起きたからか頭がまるで働かない。きのうは十二時半には布団のなかにいた。『のらくろ』の吹き出しの形が途中から変わっている理由を考えているうちに寝てしまった。「のらくろ伍長」まではトンガっている吹き出しなのにそれ以降はトンガっていないんだよ。田河先生、いつまでもトンガっているのに疲れたのかしら。いい年してトンガっている大人は痛いよということなのか。トンガリキッズはいいけどトンガリオヤジもしくはトンガリジジイは死んだ方がいいということなのか。「あいつも丸くなったなあ」なんて言われるようになったら人間おわりよ。丸くなったんじゃなくて鈍感になっただけなんだから。「大人になる」とは自ら進んで愚物俗物になることなんだぞ。「生きている」ということに疚しさを感じられなくなることなんだぞ。きょう尾崎豊モード全開やわ。来年どころか明日読んでも赤面するよ絶対。いいかげん闘いからは卒業したいよ。

トンガリ精神を忘れるな

星新一『凶夢など30』(新潮社)を読む。
あまり冴えてないな、というのが正直な感想。こっちの脳が疲れていたせいもあるかも。星ショートショートに求めてしまうあの「キレのある落ち」は、少ない。総じて、阿刀田的とも言える「奇妙な味」が優勢。曖昧性に逃げている、と思う人もいるかもしれない。
「鬼が」はそこそこ気に入った。会社の出張である地方都市の温泉地へ来た青年。そこで「普通の者」には見えないが自分には見えるという「鬼」を懇願された末に殺す。でもそれは本当に鬼だったのか、うまくおだてられ村の嫌われ者の殺人に手を貸してしまったのではないか、と不安になる話。誰もが気が付けば犯罪者にさせられるかもしれない、という暗示よりも、厄介者を非人間化(鬼)にしないではいられない共同体力学の暗示のほうがずっと怖い。排除(汚れ仕事)はヨソモノに任せる、というのはリアルなのか。
「病名」は、誰にでも「~症」と診断する医者の話。これと似たような話を筒井康隆も書いていたと思う。病名氾濫の時代は、多くの人間が何らかのアイデンティファイに飢えている時代でもある。国籍や世代や占いなどを通した自己確認ではまだじゅうぶんな「自己同一性」は得られない。そこで、「雑談が極度に苦手だ」「他人の気持ちが分からない」「同じミスを何度もしてしまう」「むかしから落ち着きがない」といった「病識」までもが動員されることになる。「豆腐メンタル」の人たちが「われはHSPなり」と声張り上げながら大通りを闊歩している様子は美しい。誰もが「患者」でいられるこんな社会を俺は皮肉抜きに愛している。そもそも「人間であること」自体がひとつの巨大な病なのだから。シオランさん、そうだろう? そういえば以前古書店で『人間という病』なんていう素晴らしいタイトルの本をみかけたな。でもぜんぜん開こうとは思いませんでした。往々にしていいタイトルの本ほど薄っぺらだから。

明日から出来れば十時ごろには起床したいね。そのほうがゆっくり書ける。ほかの書き物も進められる。さいきん取材だけで相当の時間を費やしている。禅関係のものは後からにする。オッケーグーグル、パ・リーグの順位おしえて。

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