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爆殺、エンドロール、黒枠広告、「人間界の悪役」をいかにうまく演じるか、

一月九日

しかし哲学は、厚顔無恥で愚かしい対抗者たちにぶつかればぶつかるほど、また自分自身の内部でそうした者どもに出会えば出会うほど、ますます自分に元気を感じるものだ。商品というよりもむしろ隕石であるような或る概念たちを創造する責務を果たすための元気をである。

G・ドゥルーズ/F・ガタリ『哲学とは何か』(財津理・訳 河出書房新社)

午後十二時三五分起床。
今日の希死念慮度★★★☆☆
今日の社会恐怖度★★★★☆
今日の読欲度★★☆☆☆
紅茶、ちょうしたさんま蒲焼、梅干し、炊いた白米。ホワイトノイズとサーキュレーターを起動中。音楽は中島みゆきの「御機嫌如何」。隣人がいま在室中なのでその存在がやや気になる。「生きた人間(鬼)」の気配。いつも俺は何かに身構えている。身構え過ぎている

森達也『増補版 悪役レスラーは笑う 「卑劣なジャップ」グレート東郷』(岩波書店)を読む。
第二次大戦後のまだ「反日感情」が根強く残るアメリカでヒール(悪役レスラー)として大いに人気を博したグレート東郷の評伝。彼の出自(ナショナリティ)をめぐっては朝鮮系だとか中国系だとか言われていたが、げんざいは「日系二世のアメリカ人」であったことがはっきりしている。
戦後日本におけるプロレス・ブームの中心にいたのは言うまでもなく力道山。空手チョップを繰り出してシャープ兄弟などの「悪い外人」を打ち負かす彼の雄姿に「敗戦ショック」をまだ引きずっていた「日本人」は溜飲を下げた(とされている)。その力道山が日本統治下の朝鮮半島出身であったことはもうすでによく知られている。本書によれば、彼はその「出自」を「日本人」に知られることをかなり恐れていた。とうじのメディア界でもそのことはタブーに近かった。ほとんどの「日本人」は力道山を「自分たちの国」のヒーローとして仰ぎ見、喝采をおくっていたからだ。
本書の読後から十二時間以上経過した今でも、脳髄がしびれている。この虚実入り乱れるプロレス世界のことを「底が丸見えの底無し沼」と表現したのは「週刊ファイト」の編集長だった井上義啓。「あんなのは八百長だ」としか思えない人はたぶんプロレスとははじめから縁がない人なのだろう。私はプロレスのあの「本来的」な胡散臭さにこそ惹かれてしまう。ギミックやブックやアングルといったプロレス用語からしてすでに何か胡散臭い。闇の深そうな胡散臭さだ。
人々は本質的に軽薄だから、なんであれ、「善玉」と「悪玉」を求めずにはいられない(腸内細菌においてさえ!)。プロレス観戦においてそうした「ノリ」を楽しむのはいい。ただその「ノリ」をふだんの生活にまで持ち込まれると途端に厄介なことになる。たいてい、侵略戦争を準備させるのは、「善玉の我々が悪玉の奴らに攻められるかも知れない」「悪玉の奴らのせいで善玉の我々は割を食っている」といった「被害者」意識である。「炎上」と呼ばれる現象の背景にも、他者を「悪玉」と決めつけている「善玉」がいる。強迫神経症に苦しむ私も雑音主をさいしょから「悪玉」と決めつけている(だからこじれにこじれる)。日本ではある時期から「加害国」としての意識よりも「被害国」としての意識のほうが優勢になった。誰もが自分を「か弱き被害者」の立場に置きたがる。何が言いたいかというと今日も世界は安定して地獄的であるということ。俺が本当に言いたいのはいつもこれだけ。

飯食う。このあと一時間ほど散歩して読書。あばんちゅーる沖田。メメント林。うっかり六兵衛。

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