見出し画像

今日も世界は安定して残酷だが人々の涙によって洪水が起こる気配はありません、

十二月二七日

サン・シモンが彼の名高い『回想記』を書きながら、ルイ十四世の宮廷に出入する幾多の貴紳淑女の群像を目に見、手に触れるように書き上げた如く、谷崎は大阪の類型的な有閑階級の一家一族を描きつつ、それを一時代の一都市の典型的、象徴的な存在にまで創り得たのである。

辰野隆『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』「旧友谷崎」(中央公論新社)

午後十二時三五分起床。coffee、三幸製菓、チョコ。秋篠宮家はあるのに春篠宮家や夏篠宮家はどうしてないの、と聞きまくってくる親戚のガキを黙らせるためにクルミ入りキャンディを与えまくる夢を見る。寒いといえば寒い。「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ、という俵万智の歌をいま思い出した。そういえばさいきんメガネの広告で彼女を見た。起床後の一〇分くらいはジャンパー的なものを二三枚着ていても寒い。光熱費を削ってでも本を買いたい俺はエアコンも遠赤ヒーターを付けたくない。寒さ抑えに有効なのは可能なだけ重ね着しながら熱い茶を体内に流し込むこと(「夏をあきらめて作戦」はサザン好きの俺が発案した隠語)。寒さの感覚が強くなるたび、「いまは夏だ、異常気象でたまたまちょっとだけ冷えてるだけだ」と自己暗示をかけるのもいい。厳冬只中にいると思うと、「こんな季節だから寒いのも当たり前だよな」となって寒さの前に屈服してしまう。このままだと「すべては気合だ」といった調子の「通俗的精神論」に展開されそうなので止める。とはいえさいきんの俺は、「合理的な精神主義」というものは幾分認めてもいい気がしている。「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」なんてしたり顔で講釈を垂れるようなアホには絶対なりたくないけどね。言うまでもないが俺は痩せ我慢なんて嫌いだよ。「現存在であること」がもうすでに耐えがたいことだからこれいじょう何かを我慢する気などはない。

クレール・マラン『断絶』(鈴木智之・訳 法政大学出版局)を読む。
ウニベルシタス叢書への私の愛は千言万語を費やしても表現しきれないだろう。学生時代から何冊読んだか分からない。デイヴィッド・ベネターの本も出してほしい。ウニ様ならきっとやれる。こんど編集部にメール送るつもり。そういえばきのう大江健三郎と田中優子の対談記事をたまたま読んだ。そのなかで大江は「法政大学出版局は、みすず書房と並ぶお気に入りの出版社」と話していた。まったく同感。俺は大江健三郎の熱心な読者ではないが、この言葉を聞いてきゅうに親近感を覚えた。私見によれば、人との相性を判断するうえで出版社の好みはきわめて大事である。出身地や出身校などとは比べものにならないくらいに大事である。ということでいま彼の『見るまえに跳べ』を読んでいる。そのうち「大江健三郎論」でも書きたい。
マランの本についてもう書く時間がない。死別やアルツハイマーなどを論じながらも感傷に流れようとしない著者の態度にひじょうな好感を持った。「生きることは悲痛である」という認識がないとそんなことは出来ない。いずれにせよ別れは人を「グロテスク」にする。大病がひとを「怪物的」にしてしまうように。というのも別れは「人を捨てること」もしくは「人に捨てられること」であり、どうあってもそれは「日常の切断」だからだ。俺も影響を受けた、カトリーヌ・マラブーの『偶発事の存在論:破壊的可塑性についての試論』がかなり引用されていて嬉しくなった。人はある出来事によって突然「変容」することもある、といったことが論じられている本で、なんというか恐ろしい本だ。「親しい人間の死」を経験しなければならないというだけでも「この世」は地獄だと思う。私にとって「悲しみ」や「切なさ」といったものはつねに「無い方がいい」のである。「それが生きてるってことだろ」なんて鈍感なバカどもにいくら言われても、「無い方がいい」としか思えない。でも人はそういうことをあまり言わないね。どんな残酷な離別体験も最終的にはふんわかした「詩的情緒」で包み込もうとする。それを「成長」や「成熟」につなげて語ろうとしたがる。なんでだろうなんでだろう。

もう昼食にしよう。きのうアオキで11円で買ったモヤシを炒めて、68円で買った納豆を混ぜる。四時には入れるか。ぽむぽむ爆弾、レインボー幡野、火星はクズしかいない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?