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人を捨てるなら九月

九月二一日

十二時二〇分起床。どこかのリーグの優勝投手になってひきわり納豆かけに参加している夢をみる。ピスタチオ入りの栄養菓子と紅茶。中島みゆきの『生きていてもいいですか』がむしょうに聴きたい。しかし最近は便の出方が悪いな。

ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』(鮎川信夫・訳 河出書房新社)を読む。
「普通の小説」を読む気で開いたら度胆を抜かれる。読み進めるのは苦痛でしかないだろう(まだジャン・ジュネのほうが「秩序的」である)。筋らしい筋はなく、「性格」の一貫した人物も出てこない。「麻薬中毒者(ジャンキー)の幻覚を表現したもの」という読み方さえ拒んでいるように思う。テキストを偶然的に寸断させ偶然的に繋ぎあわせる「カットアップ」と言う手法が多用されているらしいが、シュルレアリスムにおける「自動書記(Automatisme)」みたいなものか。いずれにせよどうでもいい。この言語的乱舞錯綜にいちど身を預けきって溺死するんだ。世の中いちおう努力すれば理解できるものばかりだとおもったら大間違いである。訳の分からないものに呑み込まれてこそ《文学経験》ではないのか。《異世界との遭遇》。耐えがたいほど通俗的でなまぬるい言い方。嫌になる。いつか俺の脳天をかち割ってくれる文学はきっと、俺の理解可能な言語や論理では書かれていないだろう。《重力》と《空気》の否定。すでにそこにあり続けているものへの絶縁状。「自己管理の悪魔」からの逃走。「自同律の不快」からの離脱。「新宇宙爆誕」などは決して願わない。「眼前の世界」というあり方はどうあっても旧態依然で、俺を無限にウンザリさせる。

仏陀だって? あれは札つきの代謝型麻薬中毒者だ・・・・・・ 麻薬を新陳代謝で作り出す。インドでは時間の観念がないから、売人はしばしば一か月も遅れてやってくる・・・・・・

傍点→太字

生存(現存在)とは何かしらの麻薬中毒者的であり続けることであり、「生きている他者」を目に入れるとこんなにも痛ましい気持になって吐き気と涙が止まらなくなるのは、ひとえにそのためだ。「生きている他者」はつねに生き続けようとしているがゆえに醜悪で救いがたいのである(だからこそ稀に愛おしさも感じる)。隣のジジイへの俺のこの尋常ならざる嫌悪感はほんらい、「すべての生物」に向けるべきものなのだ。個体としてのジジイは、ただ死ぬのを待っているだけの孤独で小汚いニコチン依存症患者に過ぎない。誰もがいずれそうなってしまうだろう「悲しきモンスター」。《人間の末路》。《老醜》という地獄の炎にじわじわ炙られているケダモノ。自殺する人間を非難するのはどこのどいつだ。ほとんどの人間は生まれたときからすでに死んでいるというのに。
まがりなりにもこんな怪書を翻訳できた詩人・鮎川信夫には、満腔の謝意をあらわしたい。そういえばせんじつ古書店で彼のエッセイ集(『私の同時代―鮎川信夫拾遺』)をみつけて、なんとなく文章(活字)の見た目が良く、ちょっとだけ食指が動いたのだが、けっきょく買いませんでした。

チャールズ・ブコウスキー『ワインの染みがついたノートからの断片(未収録+未発表作品集)』(中川五郎・訳 青土社)を読む。
ヤク中のつぎはアル中だ。やっぱブコウスキーの翻訳は中川五郎に限りますね。彼以外の訳でもそこそこは楽しめるがどうも鮮烈さに欠ける。ボブ・ディランの詞を訳して来ただけあって、日本語のリズムもいい。あのブコウスキーが「師」と慕うジョン・ファンテの『塵に訊け!』は都甲幸治の訳で読める。どこかにあれば読むつもり。この二人の関係はどこか西村賢太と藤澤清造の関係に似ているなと思った。

さあそろそろ昼飯。マルシンハンバーグあたためよう。おう夏だぜ。俺は元気だぜ。カマキリだぜ。マシンガンを乱射したいぜ。ブルージーンズの似合うステキ男子に抱かれたいぜ。ソーダ水のなかを貨物船が通る。小さな泡もいま消えた。

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