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「割を食う」のに納得できない私

一月二十日

九時半目覚め十時起床。納豆パスタをつくる。ただしスパゲッティは払底しているので代わりにウドンを茹でる。
このごろ寝覚めがいい。深夜一時半には決まって床に就き消灯瞑目するようにしているからか。生活上、寝覚めのよさは総じて好ましい。なにより文章は快調に書けるし本も快活に読める。活字中毒者の就寝前読書はついもう一行もう一行となりがちであり、そのせいで就寝時刻が日々遅れることになる。ごくありふれた言い草だが、「枕頭の書」は難解なものに限ります。このごろ遅々と読み進めているアドルノ&ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』なんてまさにそれにふさわしい。一行一行噛むように読んでさえ「言語不明瞭意味不明」なのだから。過去それなりの強者どもと多く対峙し自ら「読み巧者」と任じている私でさえ辟易するレベルだ。この密教的な晦渋さはマルティン・ハイデッガーのそれにも劣らない。

せんじつアグネス・カラード『怒りの哲学』を読み終えた。悪い世界で人は良い存在でいられるか、というアグネスの問題提起に気鋭の哲学者たちが応答するというもの。分量的には短い本だがさまざまの思考が濃縮されていて二度三度繰り返し読むに堪える。ポール・ブルームやジュディス・バトラーなど耳に親しい名もあったが、なによりもエリザベス・ブルーニッヒによる「損害の王国」という考察が琴線に触れた。不覚にも肺腑を衝かれたといったほうが適切かも。というのもそれが今の私の「悩み」に呼応してくれるものだったからだ。
たびたび私事で恐縮だが(俺はなんで「日記」でこんな畏まった物言いをしているんだ)、いま隣人のタバコ臭と物音に対に悩まされている。タバコ臭については、「そこはかとなく臭う」という状況だ。嫌煙的傾向の強い私のような人間はタバコの臭いに死ぬほど敏感なのである。ベランダなどから煙がダイレクトに流れて来るわけではない。隣人の年寄りは死ぬのを待っているだけなので室内でやたら吸いまくっている。しょうしょう調べてみると、多くの市販タバコには揮発性の高い化学添加物が多く含まれるうえに、その煙にはPM2.5つまり2.5mmの1000分の1の微小粉塵を含んでいるので壁の僅かな隙間にも侵入する。壁にちょっとでも鼻を近づけるとあのタバコ特有のヤニ臭が感知され、こちら側まで微小物質が浸透・沈着していることが分かる。タバコ専用の強力な消臭剤を置いたり、アロマオイルをdiffuseさせても、焼け石に水の観が強い。タバコ臭を感じるたび怒りが込み上げてくる。憎悪するということはひたすら疲れることなのです。こよなく苦しいことなのです。タバコ臭への嫌悪的執着が増大すると、その隣人の出す音も嫌になり、耐え難くなってくる。室内ドアのガサツな開け閉めのたびに響く「ごん」に胸が締め付けられる。アクビにもイライラを通り越して「殺意」が湧く。まあよくある「坊主憎けりゃ袈裟まで」の法則です。ケツの穴から手つっこんで奥歯ガタガタいわせてやりてえけど汚ねえからいいわ。

他者を許すことはある崇高なる善の実現に寄与する一種の自己犠牲でありうる、といったエリザベス・ブルーニッヒの見解に胸打たれたのは、そんな怒りの悪循環的濃縮過程で悶々としていた頃だ。そこそこ気を配って生活しているつもりの自分がなぜこんな不愉快を被らないといけないんだ、と際限のない「被害者意識」に苛まれていた頃だ。
そうだ、私はこれらの不快を我慢することに「痛み」を感じている。心臓を鉋で削られているような「痛み」。そして、そこにはどこか「悲壮」なものがある。
本当は溜まり溜まった憤懣の火薬庫を爆発させたい。無神経の報いを受けさせてやりたい。復讐したい。でも出来ない。五年前にそれをやって懲りたからだ。五分に一度の頻度で咳払いする「チック症学生」とのあの険悪な四年間を思い出すとどうしても躊躇せざるをえないのだ。この忌まわしい出来事についての詳細とその考察はまた別の日に書きます。
私はちかぢか共同住宅特有の騒音問題についての本を書くつもりでいて、したがって「玄人当事者」という自覚が強い。本についてその結論だけいうと、「共同住宅は人間の住むところじゃないからやめとけ」というごく身も蓋もないものなのだが、「そんなところ」に住まざるをえない今の私のような不幸な人に向けてなにか「語りかけ」を残しておきたいのだ。生活騒音当事者の悩みがどれほど切実であるかを、五臓六腑で知っているから。親ガチャという言葉をちかごろよく聞くけど、集合住宅における隣人ガチャもまたそれに劣らず「理不尽」なのである。
そういえば単身者向けアパートにもかかわらず挨拶も無く堂々と隣の部屋に越してきたいかにも愚鈍そうな子連れ夫婦に苦しまされたこともあった(もっとも愚鈍でなければ子供など作らないのだけど)。そのときは「匿名の不気味な手紙」を書いて追い出したのだった。ただこれについてはもっと穏当な手段もあったのでないかと些か反省している。その直後に引っ越した家賃二〇〇〇〇円のワンルームアパートでは上階に住むファミリーの便座落下音や糞ガキの足音でずいぶん悩まされた。それらの顛末についてもいずれ記しておかねばなるまい。いずれにしても私の業の深さと陰湿さを示して余りある話が盛り沢山にあるので、自分が人気稼業でなくてよかったとつくづく思う。これだけで一篇の生々しい「私小説」が書けそうだ。
しかしそれにしても悩み多き窮措大には書くためのネタが尽きませんな。そうでなくても書くべきことが列を成しているんだからこれいじょう為事をふやさないでほしいよ。

そろそろ飯だ。図書館だ。きょうは『ブコウスキー・ノート』の残りを読みたい。ゾラ・ニル・ハーストン、ジャン・ジュネ、原始仏教、アナキズムの本もいま読みたいが、きのう齧り読んだ『大学教授のように小説を読む方法』(白水社)も捨てがたい。まあ世の社畜どもとは違って自分には読む時間がふんだんにある。一冊一冊を嘗めるように賞味しよう。急いでは読書の愉悦もいちじるしく低減しますから。

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