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「心の病」、だるいのは俺が「正気」だから、モスラの幼虫を食いたがるババアの大腸、陽だまりの子守唄、

二月二一日

学校へ行くことなども勿論、あまり好きではなかった。従って大方の少年の空想するように、英雄豪傑になろうとか、大政治家になろうとか、そんな希望や野心を抱いたことは一度もなかった――第一「なに」になろうなどということもハッキリ考えたことは殆どなかった――それならどんなことを考えていたかというと、実に考えてなんにもなりそうもないことばかりを考えていた――「全体世の中というのはなんであるか?」「人間とはなにか?」「人間は全体どうしたら一番よく人として生きられるのか?」「神というような者は果して存在しているのだろうか?」「なんのために人生は存在しているのか?」(等)――つまりむずかしくいうと「形而上学的要求」という奴をやっていたのだ――僕の十四五時分の愛読書(今でも時々引っ張り出して読む)が「徒然草」であったことを考えて見ても自分のその頃の心持は略々察せられる。

『辻潤著作集<三巻> 浮浪漫語』「自分だけの世界」(オリオン出版社)

午前十一時二五分。白い油なしの紅茶、チョコクッキー。
きのう午前十一時半ごろに母親が来た。病院に行った後なのか病院に行く前なのか。彼女はいま就職活動をしているらしい。するのは勝手だけど俺にそれを勧めないでほしい。俺はいっさいの労働が嫌いだ。病院よりも嫌いだ。どんな持病があっても病院には行きたくない。ボードレールに言わせれば人生そのものが一つの病院。患者の誰もがその病床を換えようと夢中になっている。やよい軒の女子高生五人組がひじょうにやかましかった。ほとんどが同級生の噂話。半径五メートル以内の世界観。ああいうバカ全開の喋り声を五分以上聞くのは俺にとっては拷問。かつ丼を味わうどころじゃなかった。食料を買うつもりで行った「激安の殿堂」は平日なのに屋上駐車場しか空いていなかった。人混みのなかにいると泣きたくなる。「欲しいもの」など実はほとんどないのに何かを買わされている人たちを眼に入れるのが辛い。空しい人たちが空しい商品を買うことでその空しさを充たそうとしている。消費社会の地獄。欲望の永久機関。四十までに死にたいね。せめて四五までには。さいきん三島由紀夫に「同情」することが多くなってきたよ。あの死に方を嘲笑うことも出来なくなってきた。老いることはひとつの罪だ。醜悪罪だ。ほとんどの老人がそういう自覚を持っていないらしいことが問題だ。いや老人に限らない。すべての人間はもっとおのれの醜悪さを自覚しろ。そのことで苦しめ。だるさや苦しみが強すぎるとそういう素振りを見せることも出来なくなる。「いつでも死ねる」と大書した紙を壁に貼るといい。君が苦しいのは君に「精神疾患」があるからではない。むしろこんな人間地獄の只中にいながら苦しみをほとんど感じないような人間こそが「精神疾患」を抱えているのだ。蛇口から酒が出ればいいのに。酒は誰もが死刑執行の日におびえているこの巨大監獄のなかで「正気を保つ」ための必需品だ。実を言うと「生きている人間」など一人もいない。まだ自分は生きていると勘違いしている者は一定数いるけれども。愚鈍であることの罪。
馳浩石川県知事は次の選挙ではたぶん落とされるだろう。それでいい。能登半島は以前から「捨てられた土地」だった。地震はそれを誰の眼にも見えるようにした。原発のある場所はだいたいそういうところだ。「東京に原発を」とか言いたがる過激系言論人もそれを本当に望んでいるわけじゃあるまい。「不可能」だと知っているからそう言うんだ。
きょうは図書館に行く。だるさマックスだけど。ラッキーストライクばばんばん。藻。

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