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知の自爆テロ、口癖は「疲れた」、白髪の多い男子はたぶん優しい、目と鼻と脛毛、

五月二十日

パスカル型の人間は、眼前の垂直軸に釘付けになる。底知れぬ暗黒の深淵は眼差しを捕え、深淵から逆に超越へ向かう眼差しを開く。これに対して、レオナルド型の人間は、ひたすら眼前の地平線へ目を向ける。

ハンス・ブルーメンベルク『われわれが生きている現実 技術・芸術・修辞学』(村井則夫・訳 法政大学出版局)

午前十一時五九分。ソイジョイ(さつまいも)、玄米緑茶。休館日。いまは曇天極まっているが、午後はすこし晴れるみたいだ。できれば古書店に行きたい。さくや谷沢永一の書評コラム集を読んでいたら、山崎正和がべた褒めされていたので、何でもいいので彼の書いたものを読みたくなった。スマップの「らいおんハート」がさっきから頭を離れない。アオキの鶏の胸肉はわりと安い。鶏皮が無い日は鶏胸でもいいか。もちろん炒めるだけ。ただ鶏胸は自分で切らねばならない(加熱しても硬くなりにくい切り方を紹介している記事がたくさんあるがあまり信用できない)。小間切れにし、深めの皿に入れて、塩と胡椒をふりかけ、もみこんでおくといい。それで美味しくなるからというより料理をやってる感がして楽しいから。自分に酔えるから。政治家であれ会社役員であれ「やってる感」は必要不可欠だ。この「やってる感」こそ基礎的自尊心の供給源であるともいえる。概してほとんど何も「生産的なこと」をやってない人ほどこの「やってる感」を巧みに演出する。ところで若白髪の多い男子をこのごろはあまり見かけないね。みんな染めているのかしら。むかし私の惚れたレジ学生は二十歳前後だというのに白髪が目立ちまくっていた。それで男の若白髪が好きになった。たぶん優しそうに見えるからだろう。私は大人の男はきほん怖いので、そのぶん「優しそうな男」に惹かれやすい。「彼に白髪が多いのはどこまでも他人に気を遣っているからだ」というふうに受け止めてしまうから。でも「優しそう」なだけではダメなの。いざというとき守ってくれなそうだから。私は優しいのに強い男じゃないと惚れられない。この「強い」とはどういうことか。いずれ詳しく書くわ。

チャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(都甲幸治・訳 河出書房新社)を読む。
原題は「FACTOTUM」で、雑働きとか雑用係とか、そんな意味。前に読んだ『パルプ』ほどではなかったけどそれなりにブコウスキー節は楽しめた。彼の過剰なまでの「男根」誇示癖には愛らしささえ感じる。大きな付箋の付けてある頁にこういうのがある。

バスに乗った二十五人だか四十人だか五十二人だかの乗客は、運転手を信頼していた。だがおれは決して信じなかった。たまに運転手が新顔だったりすると、おれは思った。いったいやつらはどうやってこのバカを選んだんだ? おれたちの両側は深い海で、運転手のほんの一瞬の判断ミスでもおれたちは死ぬ。バカげてる。例えばやつが朝、夫婦喧嘩したとしたらどうだ? 癌だったら? 神の姿を見たりしたら? 歯が痛くなったら? なんだってあり得る。そしたらやつはやってしまう。おれたちを乗せたまま海に突っ込むんだ。おれにはわかってる。もしおれが運転手だったら全員溺れさせちまうかもしれないとか、ひょっとして溺れさせたほうがいいかなとか、ずっと考え続けるだろう。

電車に乗るときとか俺も似たようなことを考えたことがある。そもそも人々はどうしてそこまで無邪気に他人の運転する乗り物を信頼できるのだろう。「死なばもろとも」といった破れかぶれの道連れ衝動の芽は誰のなかにもある。「核戦争」があるとすればこうした衝動に端を発する以外に考えられない。自動車も運転免許証も持たない俺は、他人の車の助手席に乗ることが多い。そのたび俺は、「こいつは命を預けてもいいやつだろうか」と不安になる。同じ不安を私はしばしば理髪店でも抱く。なのにどこかの工場で作られたパンを食うときやどこかの工場で作られたスマホを充電するときにはそういう不安は抱かない。これはなぜか。もう昼食。納豆。新聞読んで出掛けるか。スーパーマリオ・ブラザーズしてえな。かりんとう正嗣。

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