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五月雨式の喋喋喃喃とどのつまりは山姥ヌードけだし棚引く妖雲の見る人もなし山桜(gift of Divil in the morning)

一月八日

正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求してやまない私のような人間なれどセイロンティーの淹れ方にははなはだ自信なくダマスカスコーヒーの淹れ方ともなればそれに倍していっそうに心許ないのでありつまるところ国権の発動としての戦争と武力による威嚇または武力の行使は国際紛争を解決する手段としてはいっさい放棄いたしたく存じ早漏いや候。

ラーメンに飢えていると言って止まない年嵩の友人と富山県砺波のラーメン屋に向かう(原則として外食をしない私は金を出してくれる場合に限り付いていくことにしている)。その店は全国放送のテレビで紹介されたあと客が殺到したそうである。ああ大衆というやつは。美食家ぶりたくないので評論的言辞は差し控えるが久しぶりにとろけるようなチャーシューが食えてよかったです。自家製の雑穀粉麺は素朴で野趣に富みスープはほどよく香る絶品。その核を成しているのが「ごま油」なのか「豚骨」なのかは分かりません。ラーメンの薀蓄開陳についてはねんじゅう「食べログ」なんかに投稿している暇なグルメ気取りのかたがたに喜んで一任したい。
ラーメンの後ことし最初の温泉に一時間ほど浸かって、夜九時半ごろにアパート。
このごろ図書館の滞在時間が六時間を超えているので眼精疲労と脳髄疲労がやや蓄積気味だ。読むこと以上の快楽は知らない私だけど度が過ぎれば苦痛にもなりかねない。過ぎたるはなお及ばざるが如し、としたり顔の先人に苦言されそうだから今日から少しづつ減らしていこう。
昨日のニック・ランド『暗黒の啓蒙書』のプロパガンディスティックな論運びには付いていくのにすこぶる苦労した。著者は、人種差別撤廃を「当然視」する思潮の系譜を支えている「宗教的信念」をときに鋭くときにさり気なく指摘しながら、読書のなかに「新反動的感性」を密輸出しようと必死である。このような、たびたび出現しては「健全なリベラル教徒」から失笑の集中砲火を受ける「ニーチェ的超人思想」とその種々のバリエーションもしょせんは小児的ニヒリズムの痙攣いじょうではない。「平等博愛サイコ―!」なんていう凡俗的ノリにウンザリしたくなる気持ちは分からなくもない。しかるにどんなになまぬるく「偽善的」でも差別や暴力や格差は存在しない方がいいという正義感覚〈sense of justice〉を放棄することは私にはできない。また、正義〈justice〉の「普遍妥当性」は「人間」という種に限らず、なんらかの意識を有し痛みを甘受するあらゆる「現存在」に対しても無条件に「適用」される(「普遍妥当的」な「正義」の「無条件適用」、という言い方では同語反復に過ぎるけれども)。もしある家畜個体に有感性は認めるなら、その食肉利用は「正義」に反する。個人あるいは集団の生存上、他者の生命搾取も「やむ得ない」とする「目的論的暴力肯定」の分析・審査についてはやたら長くなりそうなのでいずれまたやります。ともあれ慣習や伝統になにかしらの「特権的意義」を見出すことで人間は、特定の暴力を肯定的かつ自然に受容してきたしいまも受容している。このことに「我々」はもっと苦渋の思考を強いられねばならない。

戦後日本では「民主主義」は否定すべからざる大義となっている。「デモクラシータイムス」というユーチューブチャンネルがあって、私もだいたい好んで見ているのだけど、その基調にある「デモクラシーへの信頼性」にはときどき違和感を禁じ得ない。血気に逸った司会者なり出演者がしばしば露わにする「世論がこんなに反対しているのに」みたいな口振りには、おいおい世論なんてそんな「非実体的」なものをどうしてそう重んじるんだい、と西部邁的なこともいいたくなる。かりにも「リベラル」を標榜する言論メディアであるいじょう、なにかしらの定型化した反権力的ポーズも取らざるをえないだろうし、とき「党派的」に振る舞わざるをえないこともあるだろう。でもそうした野党的作法が板に付き過ぎてしまうといずれ気が付かぬうちにそれが自己目的化してしまい却って「自由な言論」が出来なくなってしまう。つまり視聴者(オーディエンス)向けのキャラ作り圧力によって言いたいことも言いにくくなってしまう。ポイズン。たとえば政権の打ち出したある政策を素直に評価することが出来なくなる。反権力的な痛快さのみを求めているだけの視聴者に知らず知らず媚びるているうちとんでもない自己欺瞞(self-deception)の罠に陥ってしまう。「反安倍派」「反左翼」を熱く演じざるをえない人々はしばしばこういう罠に足をすくわれてしまう。言論人よく口にする「是々非々」というのはいうほど容易ではないのだ。「権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する(Power tends to corrupt and absolute power corrupts absolutely)」というこれまでウンザリするほど引用されてきたアクトンの言葉を思い出そう。言論メディアあるいは言論人もまた腐敗するのだ。劣化するのだ。有名無名にかかわりなく。
私は「政治権力」も「国民」もおなじくらい信用していない。政治権力と有権者はしばしば結託する。もちろんそこに善悪の二項対立などありはしない。民主主義の単純礼賛も単純否定も酔っ払いの放言いじょうの意味はない。
「民主主義は最悪の政治形態だ。これまで試みられてきた全ての政治形態をのぞけば」というこれまた手垢べったりの「名言」があるけれど、これまであまりにもしつこく引用されてきたので、もはや読書階層の誰もこの言をまともには取り合わない。そもそも彼はデモクラシーをディスりたかったのかあるいは反語的にリスペクトを表明したかったのか、どうでもいいと思っている。

きょうは昨日ニック・ランドに注入されてしまった毒気を体から抜くため、ヴァレン・L・スミス編『ホスト・アンド・ゲスト:観光人類学とはなにか』(ミネルヴァ書房)を一六〇頁ほど読む。
もうすこし書きたい気もするがこれから買い物にいくのでここで一区切りとしよう。

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