見出し画像

世紀末ギミックⅣ、想像を絶する蒙昧遊戯、茫漠恥丘を超えて、-120℃の世界線、悲しみに凍り付く燕たち、多神教崇拝のピットフォール、ハリボテ男子、

四月十四日

人間について述べれば、他に依存しているくせに、自立したいという望みがあり、満たされない存在。

パスカル『完訳 パンセ』(田辺保・訳 角川書店)

午後十二時十六分。マッシュポテト(マヨネーズかけ)、緑茶。目覚めが悪い。きのうは夜七時一〇分ごろ、うつのみや香林坊店でレム・コールハース『錯乱のニューヨーク』を一六五〇円で買う。本当は熊野純彦訳の『純粋理性批判』を買うつもりだったのだけどなかった。無料開放中のため馬鹿面観光客のひしめく兼六園経由で帰宅後、麻婆豆腐を食って森の里のイオンで2.7リットルのブラックニッカクリアを二八〇〇円くらいで買う。きょうの寝覚めの悪さは約一か月ぶりに飲んだこのヒゲウイスキーのせいかしら。それとも寝る直前まで「談志・陳平の言いたい放だい」をユーチューブで見ていたせいかしら。はじめてセックスした中国人留学生のことを最近しきりに思い出す。若い男のキンタマの臭いをかぎたい。月の砂漠に傘になれよとおしえてくれたあなたの噛んだ小指が痛い。

横道誠・編『みんなの宗教2世問題』(晶文社)を読む。
むろん安倍晋三射殺によって噴き出した「統一教会問題」を受けてのもの。宗教二世(カルト二世)当事者の語りをはじめ、中田考や島薗進や釈撤宗や信田さよ子といった識者の論考、編者と斉藤環の対談など、見所は盛り沢山。さっこんよく耳にする「毒親」という言葉はスーザン・フォワードの『TOXIC PARENTS』(一九八九年)から来ている。よく「すべての親は毒親である」といった極論がなされるけども、そういった極論によって「本当にやばい毒親」と「どこにでもいる普通の毒親」をいっしょくたにしてしまうのは「被害者」に対する間接的暴力であり、大いに問題だ。とはいえ、私はそもそも「子作り」という行為自体に許し難い暴力性を見てしまうので(ほとんどの愚鈍人たちはそうじゃないみたいだけど)、宗教虐待(religious abuse)や教育虐待なんかを扱った議論にはいまいち乗れないのだ。そうはいっても、幼いうちに何かしらの狭小で歪んだ世界観を植え付けられたり、教祖(あるいは神)への服従を強いられたりすることなどは、私にはとても肯定できることではない。「苦しみに満ちた現世」を受容するためのナラティブであれ、「自己存在」の本来的無意味性から目を逸らせるためのナラティブであれ、それらを一旦は否定できる「冷めた哲学的認識」を私は持ちたい。哲学とは「確実性」への絶え間なき希求でもある。『思考すること、それはノンと言うことである』という題のデリダの講義録をきのうたまたま見たけど、私は「外」からやってくるどんな観念に対しても、とりあえずは「ノン」を突きつけたい。

但有る来者は、皆な受くることを得ざれ。你が一念の疑は、即ち魔の心に入るなり。
(外からやって来る物は、すべて受け付けてはならぬ。君たちの心に一念の疑いが浮かべば、それは魔が心に侵入したのだ)

『臨済録』「示衆」(入矢義高・訳注 岩波書店)

問題は「宗教」だけではない。「生きる」とはつねに先入見に誑かされ続けることだ。本書で最もラディカルな時代批判を含んでいたのは中田考(イスラム学)の論考。彼は唯一神以外の何かを信じることをすべて「偶像崇拝」としている。現代においてはリヴァイアサン(国家)とマモン(資本)の偶像崇拝が人類の宗教になっている、と。「禅者」としての私にとってはその「唯一神」でさえ、「無」や「存在」同様、「余計なもの」にしか思われないのだけど。あっは。ぷふい。納豆パスタ食って図書館行こうか。読売を読むのはあとでいい。ららばいららばい。ゲーデルの不完全燃焼。川内広汎性発達ショウタイム。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?