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「筋トレ」のことはもう馬鹿にしないよ絶対、シックスパックを作るまでは酒を飲まないことにした、日本一のプロウォーカーに俺はなる、

六月十九日

天邪鬼は、どん底において快哉を叫ぶ。

原口統三『二十歳のエチュード』(角川書店)[原文傍点→太字]

午前十一時十九分。紅茶、オートミールビスケット。無駄に天気がいい。こう天気がいいと図書館に行く気がますますなくなる。図書館など肉体の衰えかけた半病人の行くところだ。きのうも午後四時から五時間ほど歩いた。主として大桑緑地と犀川河川敷。外環状道路の下を通ったりもした。

雨露を凌ぐのによさそうな、

帰り道、アオキで鶏胸肉とミョウガとニンニクとニラを買った。ミョウガとニンニクとニラは半額だった。このごろ自分のたるんだ腹回りを見るたびうんざりする。もっと引き締まれないのかお前はと苛立つ。俺は肥満体型ではないが体脂肪率をもっと落としたくてしようがない。プロウォーカーにふさわしい肉体を作り上げたい。まずはシックスパックだ。腹筋を割りたい。腹筋が綺麗に割れるまでは酒は飲まないことに決めた。なんとなく酒はよくない気がする。俺の直観はだいたい正しい。というか酒を飲むと喉が渇いて水をがぶ飲みしなければならなくなってそれが単に面倒臭い。金もかかるし。快楽を金で買うなんて下の下だ。教養人にふさわしくない。教養とは学歴のことではなくて「一人で時間をつぶせる技術」のことだ、という中島らもの洞察はたぶん正しい。モノにそう強く依存しないこと。他人にも最低限の依存しかしないこと。人とべたべたするのはすこぶる嫌いだ。この国で「個人」として生きるのは大変なことだ。ほとんど不可能と言ってもいいかも。誰もが「他人」を生きている。他人の欲しいものを欲しがり、他人の嫌がるものを嫌がり、他人が好きになるものを好きになっている。戦略的かつ惰性的相互模倣。こればかりはもうどうしようもないんだ。諦めろ。俺がいまシックスパックを作りたがっているのもたぶん「他人(既成)の美学」に影響されてのことだからね。フィットネスクラブやプロテインの広告に付き物のあの引き締まったボディのイメージなんかに知らぬ間に憧れを抱かされてしまっていたんだ。他人の影響なんか受けないつもりでいたこの俺が。いずれにせよこれからはアディクションの対象を酒から「肉体改造」に変えよう。そのほうがより大きな自己愛に浸れそうだから。かつて俺は必死こいて「筋トレ」している人たちを「筋肉ナルシスト」と馬鹿にしていたが、彼彼女らの筋トレ欲が「現状の自分に飽き飽きした末の変身願望」なのだと理解したとき、その偏見が解けた。そもそもナルシストではない人間などいないのだ。だって「私」に輪郭を与えるのは他人からの眼差しなんだから。その他人からの眼差しにまず晒されるのは顔を含めた肉体だ。というか肉体以外は晒されることはない。肉体はつねにすでにそこにある。あり続ける。肉体はこの眼差しからは逃げも隠れも出来ない。この残酷さを噛み締めること。「筋トレは自信につながる」といった自己啓発度高めの通俗的言説を今の俺は一蹴できない。肉体を「自分の思い通り」に変えることには何かしら質の高い快楽が伴うだろう。「世界」に対するこの漠然とした無力感が一時的にでも薄らぐような気になれるだろう。「ダメ人間」というのはたいていの場合、「自分の思い通りになることなんか一つもありはしない」という自棄的な学習性無気力状態に自分を追いやっている。「ダメ人間」は、ほとんどの人間がパレスチナ戦争を傍観することしか出来ないように、自分の肉体を傍観することしか出来ない。その対象物が「ある程度までは変容(制御)可能」なのだと実感したときに生じる感動は如何なるものだろうか。きのうユーチューブで一日三分二種目のトレーニングでシックスパックを作れるという動画を何度も見た。なんとなく信用できそうだったので信用することにした。食うものにも気を付けた方がいいかも知れない。スナック菓子みたいものは食わない(もともと食わないんだけど)。米は食べ過ぎない。寝る直前にものは食わない。「科学的に正しいダイエット」を謳う本は参考程度にしか読まない。痩せ我慢はしない。オナニーはする。オナニーのない一日は卵黄のない卵みたいなものだから。もう昼食。読むべきものを読んで、書くべきものを書いてから、太陽の下、たっぷり歩こう。「歩いた、歩いた、歩いた」。俺の墓碑銘はこれで決まりな。

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