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餓鬼の使い、読書より素敵な趣味はない、糞詰まり甲子園、わが闘争愛、

八月二四日

存在はわれわれにとっては、なにか無関心なものにすぎず、それゆえにわれわれは、存在者へのあらゆる関わり合いをそれに懸けているにもかかわらず、存在と存在者の区別にほとんど注意を払わないのである。けれども、存在への関わり合いのまだ経験されていない分裂性の圏外に立っているのは、ひとり今日のわれわれのみではない。このように圏外に立って知らずにいることが、すべての形而上学の特徴なのである。なぜなら、形而上学にとっては、存在はどこまでも必然的に、もっとも普遍的なもの、もっともわかりやすいものにすぎないからである。形而上学は、存在の圏内において、存在者のさまざまな領域の、それぞれに段階と階層を異にする普遍的なもののみを考察している。

マルティン・ハイデッガー『ニーチェⅡ ヨーロッパのニヒリズム』空虚と豊饒としての存在(細谷貞夫・他訳・平凡社)

午後十二時三三分。アーモンド魚、紅茶。午前中に離床することは出来なかった。土曜日だからいいか。自分にも甘く他人にも甘い、そういう者に私はなりたい。ノイズキャンセリングイヤホンを付けながら寝てみたよ。ガンとかドンという音は一定程度緩和してくれそうだけど耳栓に比べれば硬いので慣れるのにたしょう時間が必要かな。しかし二十年前の八月下旬はこんなに暑かったかね。「地球沸騰化」なんて誇大ワードだと思って真に受けていなかったけどそろそろ真に受けたほうがいいのかもしれない。寝惚けていたせいでエアコンを付けているにもかかわらずとちゅう窓を少し開けてしまっていた。「取り返しがつかない」という焦り、罪悪感。今日からはもうエアコンは使わない。たぶん。昨日は午後三時からコハ氏と二時間半ほど閑談。小泉進次郎は自民党長老どもの操り人形に過ぎないとか、糞成金どもの資産や投機マネーにはもっと大胆な課税をすればいいとか、国会議員や企業コンサルの数が半分になっても国は混乱しないが介護士やトラックドライバーの数が半分になると国は一気に混乱するとか、夢を追っていても痛くないのは三五歳くらいまでとか、たいていの人間は四十歳前には死んだ方がいいとか、そんな話をする。

エマニュエル・トッド『我々はどこから来て、今どこにいるのか? 下 民主主義の野蛮な起源』(堀茂樹・訳 文藝春秋)を読む。
予定通りに通読できた。本は読むのが遅すぎても速すぎてもいけない、というのはパスカルだったか。トッドは自身が学者でありながら大学(アカデミー)の人間が権威的序列体制(ヒエラルキー)に組み込まれている点を厳しく突きまくる。自由や平等を唱える「リベラル系知識人」が上から目線の独善的存在と化している、と。一流の大学を出て一流の人たちに囲まれながら生き生きと「自分らしく」働いている人たちと、大学も出ておらずろくな定職にも就けていないほぼその日暮らしの人たちの間に、連帯感など生まれるはずがない。前者のキラキラ組がどんな「リベラル的主張」をしようとも、後者にとっては空しい優等生的キレイゴトでしかない。この「分断」がイギリスのブレグジットを可能にしたのであり、アメリカのトランプ当選を可能にしたのだ(もちろんそれだけはないけど)。日本でも低学歴の低収入者ほど同性婚や脱原発のような「なんとなくリベラルっぽい主張」に反発を感じやすいように見える(私がときどき一緒に温泉に行く四十代の自民党支持者の知人は自身がゲイつまり「セクシャルマイノリティ」であるにもかかわらずトランスジェンダーについて誤解に基づく典型的悪口を言い放っていた)。「意識高い系」という揶揄と「リベラル系」という揶揄は明らかに重なっている。もはや社会の底辺で喘いでいる大多数の非正規労働者にとって「リベラル系知識人」は同志ではなく、メリトクラシー社会において成功したキラキラ組の代弁者でしかない。勉強できなかったがゆえに底辺に固定されてしまっている人々は、勉強することでそれなりに成功できた人々に無限の距離を感じる。そういう成功者はきほん「弱者」のことなど顧みないが、気まぐれに顧みたところで、「弱者」の屈辱はますます強くなるだけだ。「弱者」というのは概して日銭を稼ぐことと屈辱を感じることに忙しく、社会をマクロにみる心的余裕がない。だから「同情するなら金をくれ」とさえ叫べなくなっている。政治とは大きな主語にかかわる理想とだめだめの現実のギャップを地道に埋め続けることである。現実というのはつねにどうしようもなくグロテスクなものなのだけど、そのどうしようもないグロテスクさの前にただ呆然と佇んでいたって何もはじまらない。トッドについては気になるところもたくさんある。まずそのロシア論がロシア擁護の色合いを帯びすぎている(ように見えてしまう)ところ。西側諸国の行き過ぎた反ロシア感情を正そうとする目論見があるのは分かるが、それにしてももう少しロシアから一定の距離を取れなかったものか。ときどきトッドがプーチンの代弁者のように見えてしまう。あと「少子化」をなにかと問題視しているところも気になる。子持ちの知識人だから仕方ないのかもしれないが、倫理的観点からすれば、どんな子供もこんな苦痛と暴力に満ちた世界に生まれてこないほうがいいのだ。それによって日本やドイツやフランスといった国が衰亡したっていいではないか。人類史とはひとつの悪夢なのである。トッドほど知性に溢れる人間が「人類の永続性」を夢見ているとは思えない。人類学にみて世代生産を否定するのはきわめて不自然なことだ、なんて言わせないよ。人類はもうすでに核保有や遺伝子組み換えなんて超不自然なことをやっているではないか。しかもトッドは日本は核を持つべきだとか言っている。そういうのをお節介というんだよ。もうそろそろ雲古して昼食ね。納豆でいいか。日本そのものが、バカの壁。きゃりーぽむぽむ。愛は地球を巣食う。

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