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「満員電車」なんて本当に存在するのか?

五月二十日

小学校に入れば、もうそこからはすべてが一直線だ。孤児院の翔馬は幼稚園に行かない。予備役を飛び越えて、一挙に戦線に放り込まれる。ただ一直線に〝学校〟という道を歩いて来て、すぐに自分の後ろに追いついてしまう。卓也にとって学校とは、ただそういうものだった。一直線で、なんの支えもない。ゴールに親が立っているからこそ、ただ一直線であるコースを走り抜けてしまえるようなものだけれども、親がいなかったらどうなるのだろうか。卓也はそう考えていた。

橋本治『愛の矢車草』(新潮社)

午前四時起床。安くて薄い緑茶三杯。こんなもんで目が覚めるか馬鹿野郎。ダンカンばかやろう。Benny Golson。さくや胃腸が緩くてとちゅう目を覚ました。ただ体調は回復した。きょうは正午にはライブラリーに行こう。あんまり長く休むと休み癖がついてしまう。
筑摩の「現代漫画」シリーズのサトウサンペイ集を読んでいて気付かされるのは、その時事ネタの多さと、それをいま何気なく読みながら笑うことの難しさである。昭和四十年代の作品には、学生運動や紅衛兵やベトナム反戦運動がたびたびネタになっている。注釈もなにもないから(漫画にそんな野暮なものは求めてないが)、<昭和史>に暗い「いまどきの若い読者」は、とてもついていけないだろう。古い漫画を読解するのにもそれなりの「教養」が必要らしい(そういえば『のらくろ』にだって重営倉とかいう言葉がなんの説明もなし出て来る)。『スカタンCO』の八コマ漫画にこんなのがあった。男が銭湯で他の客の足の甲に何かの痕をみつけ、「あなたサラリーマンでしょ」「ええ」。「あの人もサラリーマンだ」「この人もだ」。「どうしてわかるんですか」と問われた男、自分の足の痕を指さしながら「これがマーク」。さいご満員電車でヒールに踏まれる靴の絵。この作品集だけでも満員電車をネタにしたものがやたら多い。東京に住まない僕は人でぎゅうぎゅうになった電車というものをテレビや漫画でしか見たことがない。ほんとうにあんなものが実在しているのかしらと素朴に思う。あれは東京についてbad impressionを与えることでこれいじょう人口を増加させないための「虚像」なのではないか。かりにわずかでも「自尊心」がある人間があの鮨詰め空間に耐えられるとはどうしても思えない。だってもう今ではどこに住んでいたってあんまり変わらないじゃないですか。都鄙の利便格差はもうほとんど無視できるほど小さい。藤原新也は通勤ラッシュ時の電車を家畜輸送列車か何かにたとえていたが、家畜だっていまどきはもう少しマシに扱われているんじゃないのか。過密飼育や無理な輸送はアニマルウェルフェア的に問題である、とかいう声がだんだん大きくなっているじゃないか。
しかし眠くてどうしようもない。頭がまるでつかいものになりませぬ。

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