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憫笑倶楽部、山菜メルカトル図法、いつまでもあると思うな読書体力、男はいつなぜ「おじさん」になる、稲妻蜃気楼、

四月二五日

神秘主義道の老師たるある聖者が言いました。
「私は神を識ったので、安心や不安も、誰かへの友情や敵対心もありません。」

アッタール『神の書』(佐々木あや乃・訳 平凡社)

午前九時五三分。きわめて濃い緑茶、貯古、扁桃。早起きは気持ち悪い。目が覚めると川内康範のことが頭にあって、だからさっき『月光仮面』の主題歌「月光仮面は誰でしょう」を聴いていた。この詞の「月光仮面のおじさんは」の部分に「時代」を感じる。あの「連続テレビ映画」が放送された一九五八年~一九五九年はまだ「おじさん」がヒーローたり得た時代だったのか、と結論するのはさすがに単純過ぎるか。いずれにしてもこの時代にはまだ「おじさん」に一定の「権威」はあった。いまでは「おじさん」などは存在自体がひとつの害悪として認識されつつある(というか認識されている)。「おじさん」と聞くたび橋本治の『蓮と刀』(河出書房新社)のことを思い出す。この変な本は(橋本治の本はぜんぶ変だが)は「おじさん」なる者への根源的批判の書とも言える。

〝おじさん〟というのは、そこに敬称を含ませておきながら、そのことに全然不思議の念を抱かないでいられる人種のことね。
今の一行分からなかったあなた――あなた〝おじさん〟ね。〝不思議の念を抱く〟ということがどういうことか分らなかったんだから、〝不思議の念を抱かないでいられる人種の人〟なのよ、あなたは。

Ⅱ フロイトは〝おじさん〟だった

男は「おじさん」に生まれるのではなく「おじさん」になるのだ。男が「おじさん」であることを自己批判しないでいられる社会システムがすでに存在している。「おじさん」は自分がそういうシステムの「受益者」であるということにほとんど気が付かないでいられる人種である。がいして橋本治はそういう人間に対してやたら厳しい。だから彼は日本の「知識人(文人)社会」のことも大嫌いだった。「大人のくせに実体がなくてそれでデカイ面をしていて、それで――というかそれだからこそ、いざという時になるとこそこそと逃げ出してしまう」(『江戸にフランス革命を!』「彼は一体なにを怒っていたのだろうか?――平賀源内考」)ような人間が大嫌いだった。私は橋本治のエッセイをおおむね好んでいるが、ときどきその「とんがった個人主義」に過剰を感じることもある。お前らも俺のように独立独歩で生きろよ、と全身を以て言われているような気がして、いたたまれなくなる。主題歌の中には「正義の味方」という陳腐化して久しいフレーズも堂々と出てくる。そういえばさいきん図書館で『正義の味方が苦手です』というタイトルの本を見かけた。新潮新書だったか。あまりいい本を出さないレーベルだ。四時間前、半醒半睡のうちに一句作ったんだ。

春雨や隣のジジイも爪を切る

結構いいんじゃないの。自句自賛。低家賃の集合住宅では隣人の爪を切る音まで聞こえてしまう。「ジジイが」じゃなくて「ジジイも」というのがいい。偶然同じことをしているおかしさ。たぶん日曜日ではないか。このごろは何をしていても句作のことが頭を離れない。句作は作歌と違って、ひとつの瞬間的想念がそのまま形になりやすい。どっちかというと句作の方が俺に向いている気がする。今日は好天気だからやがて古書店に行くつもり。古着もちょっと見たいから野々市まで行くか。ロングウォーカーの俺は、ほんとうは、どんな日も最低三時間以上は歩きたい。でも天候がそれを許さない。実はお金もそれを許さない。たくさん歩けばそれだけ靴底の摩耗も進行しやすい。しまいには穴が開く。俺のまいにち履いている靴にも穴が開いている。たぶん踵のあたり。雨の日に歩くと靴下が濡れる。いま「靴底の穴の修理方法」と検索するといろいろ出てきたのであとで読んでみる。ダイソーやセリアで買えるくらいのもので修理できるならそれに越したことはない。そういえばわりと好きな開襟シャツのボタンが取れているんだった。裁縫セットも買わないと。繰り返すが一人暮らしを愛するためにはまずこういう「家事雑事をしている自分」に陶酔することが肝心だ。「俺はこういう細かいこともちゃんと出来るんだ、他の野郎どもと一緒にするな」と。いま「女子力」という大嫌いな言葉が脳裏をかすめた。ともあれ必要なときに必要なだけ己惚れることが出来るのも才能なのよ。アスファルトに咲くトリカブトのようにふてぶてしくありたい春日和。ロジャー・クレメンス。呉メンス。おさらぎじろう。だいふつじろう。

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