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私の「夢」をあなどるなかれ

■夢のパッチワーク旅行
2日前に見た夢は、1人であちこちを巡る小さな旅の夢だった。過去に出かけたであろう場所、見たであろう景色、それらがパッチワークのようにつなぎ合わされた想像上の旅の夢だった。

目が醒めてから、何故このような夢を見たのだろうと思った。どうも仕事が煮詰まっているから気晴らしに旅行の夢を見ることで心理的閉塞感から解放されたかったのだろうか。というか、私は日頃からどこかへ出かける夢が非常に多い。車を運転していたり、電車でどこかへ向かっていたり…。開放されたい気持ちが深層にあるのか、目的地(ゴール)へ目指さなければならない強迫観念に支配されているのか。私のことなのでおそらくそんなことだろうとは踏んでいる。

ところで話は戻るが、夢のなかの「パッチワーク旅行」はたいそう美しく楽しかった。一部始終を忘れたくないので、noteをメモ代わりにして大変に申し訳ないがここに記しておきたいと思う。

■あの丘をのぼれば
私は人気のない公園にいる。いや、小さな祠が在るような気がするのでそこは神社の一角かもしれない。私は気の向くままに端に伸びる石製の階段を上ってみる。

気付けば階段は土が踏み固められた急な坂になっており、私は小石を除けながら細い坂道を上っている。

そして坂道の先は小高い丘がぽっかりと広がっていた。空は高く青く澄みきり、空一面を墨絵で流したような薄い雲たちがその空の大きさを物語っている。夏草は風に揺れ、爽やかな風が私のあいだを吹き抜けてゆく。丘の上からは、遠くの山波をはるかに眺めることができた。

坂の下には景色を見ようと上りくる人達の姿がまばらに見える。私は次の客人に譲らなければと思い、ぐるりと景色を眺めきると元きたところへ戻ろうと坂を下りはじめた。

■思索の小径
坂を下りきってから私は道を間違えてしまったことに気付く。車を停めていたはずの公園や神社は見当たらず、周囲は寂れた私鉄の駅へ通ずる小径であった。辺りは雑木林に囲まれており、足元は絨毯が敷かれたように落ち葉が何十にも折り重なり、歩くたびにザクザクと落ち葉を踏みしめる音があたりを響かせた。歩道の脇には散歩中に休憩がとれるような真新しい木製のイスとテーブルが2セット並んでいる。空は曇天であり、気付けば肌寒い空気が足元からひんやり感じられた。静寂のなかで思索を深めるには好適だと思ったが、いかんせん、あたりは高い木々が生い茂り、葉で陽が届かず昼でも薄暗い。女性一人で佇み思索にまどろうには少々物騒なエリアだ。そう思うと急に不安になり、私は踵を返して下りてきた小径を慌てて引き返すことにした。

急ぎ丘の上に戻ると道しるべの看板を見つけた。そこには消えそうな字で「鬼子母神→」とある。私はホッと安心して示された矢印の方向へと曲がり更に歩を進める。

鬼子母神へ向かう坂を下りきると、私は閑静な住宅街を歩いていた。その先には京都の地元の人にしか知られていない奥座敷的な温泉地があるそうで老舗の旅館がいくつか構えているらしい。どうやら今度はそこへ向かうようだ。

■京都の奥座敷
誰もいない静かな住宅街の路地をくねくねと歩く。日本風の立派な屋敷が並ぶ街並みをキョロキョロと見遣りながら私は周囲の風景と溶け込んだような気持ちで歩いていた。路地の角に温泉旅館風の屋号を掲げた一軒の日本家屋が目に飛び込んだ。どうやら一般住宅を宿に改装したもののようだった。「へえ、こうゆうリノベーションも今の時代、流行っているんだ…。」と、私は通り際に建物の中を横目でのぞきつつ、そう独り言をつぶやき感心をした。

そして目が醒めた。朝の6時30分だった。私は見立てほやほやの夢がとてもリアルだったので、それを忘れないよう仰向けに体を向き直し、始まりから終わりまで繰り返し再生し、脳内に一連の出来事を焼き付けることにした。

■夢の中で旅する私
まだ、起きがけの寝床のなかで、脳内で夢のひと通りを再生しながら、私は本当に各地へ旅をしてきたような感覚、感情に包まれていた。様々な景色に見惚れ、自然に触れ、感情を揺り動かされた。

よくよく考えると、おそらく、かつて各地の高原や山岳道路をドライブしたときの思い出やあちこちの公園を散策した記憶、京都の東山、岡崎、哲学の道界隈をぶらぶらしたときの光景や雰囲気がモチーフとなり、パッチワークのように繋ぎ合わされて出来上がったプチ旅行のような気がしている。そんなことを思いながら、「やっぱり旅行ってサイコー!」と寝床で夢の追想をしながら私は満ち満ちた実感を伴いながらつぶやいていた。

いやいや、「何やってんだ、私は。」である。自分で書いていてもちょっとおかしいだろう、と思う。「夢のなかで、すっかり旅行に出かけた気分になるんじゃないよ。」である。

だが、私の夢は解像度が高く、かなりリアルな仕上がりなので、このような調子で夢の中でも手軽に現実感を得ることが出来る。当然に、夢の中で多様な感覚も得られるし、感情も生み出されるので、目が醒めてからもそれが強く残存していることがあり、正直、何が現実だかよくわからなくなることがあるのだ。

■「マトリックス」の世界ってこんなもんじゃない?
大脳生理学的に言えば、私たちが現実世界で捉えているものは、身体の視覚や聴覚といった感覚器が感受した感覚刺激情報が神経伝達物質によって大脳に運ばれ、その刺激情報を基に大脳の複雑な認知機能が作り出した世界に他ならない。

であれば、夢に映る世界もまた刺激情報として感知され、同様に大脳で処理されれば、それもまた脳が作り出した世界になるわけで、その世界のなかで感情なり思考なりが働けば、それは、「もうひとつの現実世界が在る」と少しばかり捉えることがあったとしても致し方ないのではないかと思うのである。(まことに主観に満ちた個人的な解釈ではあるが)

これ以上、語り出すと映画「マトリックス」の世界とたいして変わりが無いような気がしてくるし、そうなると、いよいよ私もちょっと「変わっている人」になってしまいそうな勢いなので戯言はこのくらいに留めておくことにする。

何が言いたいのかなんだかわからなくなってしまったが、とにかく私の「夢」はこんな調子でなかなかに侮れないのである。


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