見出し画像

学会遠征編 6日目 タイの学会

前回のあらすじ

 昨日(学会遠征編 5日目 バンコク上陸|シナモンパン (note.com))に、タイのバンコクに上陸した。人生初海外で湧き上がる中、まずは1日CRAZYと一緒に観光した。熱帯の蒸し暑い気候や金ぴかの寺院、汚い川にスパイシーな料理など、日本しか知らない自分にはどれも刺激的で目新しいものばかりであった。

朝食

 前日の夜に朝食は買っておいた。今日は出発が朝の7:30なのでそんなに時間がないからである。ホテルに朝食を付けたとしても、開始時間が7時では十分に食べられないまま出ることになり不毛だ。これもあって朝食なしのプランで部屋を取ったのだ。そのため朝からコンビニ飯である。パンをいくつか買っておいたのだが、たくさんあるので少しは昼飯用にカバンに忍ばせておくことにした。僕の発表の順番は昼休み直後の1番なので、多少お腹が空こうともすぐに食べられるものである必要がある。ただし、コンビニは300バーツ以上でないとクレカが使えないので効率よく無駄遣いしなければならない。そのため、パン以外にもいい香りのする携帯用ミント(合法)と冷えピタを買った。もうUSBの線はいらない。

入場

 7:30に僕のホテル前でCRAZYと合流した。もう既に暑いが、彼はジャケットも羽織っていてさらに暑苦しそうだ。カッター+ネクタイの僕に対してジャケットは着なくていいのと聞いてきたが、この国なら、いやこの温度なら許されるだろうということで気にしないことにした。こういうところで本部には合理的になってほしいものである。
 道は迷わない。昨日予習しておいたので、地図なんて必要ないのだ。会場のホテルに入ってエントランスに尋ねる。我々の会場は3Fでやるらしい。3Fまで上って、学会参加の手続きを行った。これにて正式に開始である※1。この階丸ごと貸し切りらしい。まずはカウンターでウェルカムドリンクをいただいた。コーヒーやオレンジジュースなどいろいろ選べるようだが、自動エスプレッソマシンが楽しそうだったので、1杯目はカプチーノにした。クッキーももらえた。自由席だったが、ちょうど2つ並んで空いているところがあったので、そこを僕とCRAZYが座った。そこには自由に使えるメモ用紙の他に、なんとボトルの水と眠気防止用のスッとするキャンディが用意されていた。なんというおもてなしの精神だろうか。これなら飲み物どころか朝食すら用意しなくてよかったではないか。ちなみに、この学会は参加費無料だ。それなのにこんなに手厚くもてなされては、逆に恐怖すら感じてしまう。また、参加者は日本人とタイ人が半々ずつと発表者リストには書いてあったが、パット見た感じ日本人は少ないようだった。たしかに、オンラインでも参加できるので、わざわざ来ない人もいるのだろう。

発表 午前の部

 午前は僕もCRAZYも出番がないのでただの聴講である。僕は頑張って英語を追ってみようと聞いてみたが、マイクで音がつぶれて全然聞き取れなかったので、あきらめて自分の発表資料の最終調整をして過ごした。奴はもちろん発表資料の作成だ。この時点でまだ発表資料が数ページほど空白なのは控えめに言っても気が狂っている。さすがCRAZYだ。こんなヘラヘラした37歳児も、肩書はドクターである。横目で見た感じ結果は申し分ないくらいに出している。もう原稿の方は見限ってアドリブにしゃべることにしていた。彼にとっては英語は母国語の一つなので全然問題ないのだろう。5人ほど発表が終わるごとに休憩時間がある。最初の休憩時間に会場全体で記念撮影をした。中には3,4歳くらいの小さな女の子もいた。ずっと女性にくっついていたので、子連れで来たと言うことだろうか。周りのおじさんたちはメロメロになっていた。厳正なる国際学会というとたいそうなものに思えるが、割とラフな会なのでこういう癒しも許されるのだろう。その母親(?)は発表もしていたが、子どもはその発表にあまり関心を持っていなかった。
 部屋の外に出てお手洗いを済ませようとしたら、先ほどカプチーノをいただいたカウンターに更なるクッキーの山々が連なっていた。これはもう1つずつもらうしかない。飲み物のレパートリーも増えていた。発表の番が回ってくるのは緊張するが、おやつバイキングをしてけっこう楽しむことができた。音もごみも出さないように気を付けているとはいえ、飲食しながら聞いている人を前に発表者はどんな気持ちになるのだろうか。緊張していてそもそも聴講者の様子なんて気に留めることもできないのだろうか。それとも俺の話を聞けと言わんばかりに腹立たしくなるのだろうか。おそらく僕は気づいたとしても無関心だろう。

昼食

 12時を回り、昼食の時間となり、参加者は2Fに招待された。どうやら、こういう1ホテル貸し切りタイプの学会は昼食までついてくるらしいのだ。軽食用に持ってきたパンはこれにて役立たずとなる。もっと先に知りたかったという後悔とは裏腹に、お高いホテルのランチがタダで食べられるというハッピーイベントに胸を躍らせていた。CRAZYは昼食があることを知っていたらしい。さすが、ドクターなだけあって国際学会については十分慣れているようだが、それならそれで教えてくれてもよかったじゃないかとも不貞腐れた。
 2Fは部屋全体が貸し切りのレストランになっており、ビュッフェ形式で好きなものを取って食べていい感じだった。特筆すべきは生ハムの種類だろうか。プロシュートしか知らない自分には数えきれないほどの種類が用意されていた。1枚ずつ取っていくことにした。しかし全部乗せたころにはもうお皿にスペースがなかった。おとなしく座って食べろということだろうか。生ハム共の上にサラダを山盛り載せて健康感を演出し、席に着いた。CRAZYは意外と緊張しているようだった。いつものヘラヘラしたやんちゃ坊主の面影が見当たらないくらい肩が上がっている。それでもおしゃべり好きなのは変わらないようで、例の子連れの女性と仲良くしゃべっていた。僕は緊張など忘れて美味しさに夢中になっていた。ただ、これだけ生ハムを持ってくると、味の違いがどうというより塩気が強すぎて水が欲しいという感想の方が先に来てしまった。ほどほどにすべきだと反省しておこう。
 ビュッフェなので次のお皿もとることにした。CRAZYはもうお腹がいっぱいでギブアップしたが、僕は食べられるものを食べられるだけ食べたい。ピザより大きく、分厚い巨大なパンが置いてあった。切って食べろということだろうが、切るものがないので断念した。一方巨大チーズの方はちゃんとナイフも添えられていた。面白そうなので少し切って取っていった。他には頭からゴロゴロと切っておいてあるサバも発見した。大のサバファンである僕が見逃すはずもない。一切れ貰った。あとはカレーコーナーにも出向いた。いろいろあったが、いちばん色の主張が激しいグリーンカレーももらった。僕は以前にインド料理屋でほうれん草入りグリーンカレーを食べたことがあったので、見た目には全然怯えなかった。ピリ辛はありつつココナッツミルクのおかげでマイルドになった、なんとも愉快な味わいである。
 最後にダメ押しでデザートもとりに行った。どうせなら現地のフルーツも食べておきたいからだ。マンゴーやパイナップルはお馴染みなのでよくわかるが、見た目のいかついドラゴンフルーツまでも存在していた。昔小学生だったころに食べたことがある。その時の記憶と同じだ。外側はパインやドリアンに負けず劣らずゴツゴツしており、攻撃力の高い投擲アイテムのような見た目をしている。その外見のいかつさは上っ面だけではない。切った中身は、黒ゴマというか虫のような種がびっしり詰まっている。おそらく集合体恐怖症の人には恐ろしい光景だろう。外側からも内側からも人間ごときに食べられたくないという意思がひしひしと伝わってくる。そんな見た目だが、口に入れると美味しいフルーツである。これくらいの甘さがちょうどいい。特にこのブリンブリンした食感が癖になる。また食べたいと思ったところだが、時間が押してきたので発表会場に戻ることになった。次は自分の番か。そう思い出したところで一気に現実という大波が押し寄せてきたかのような気分になった。

発表の順番

 やってきてしまった。自分の発表である。あれだけ緊張してないと言っておきながらも、いざ発表者の席に座ると迫力は全然違う。これからしばらくは英語しか通じないのか。そういった緊張感である。だがしかし、これは高揚感と捉えてもいい。昔の自分にこれができただろうか。今やろうとしていることを挑戦する気になれただろうか。自分のレベルアップには最適なイベントである。そう思って前向きに立ち向かうことにしたが、さっそくトラブルが起きた。USBの認識に時間がかかったのである。直前が休み時間だったので先にやっておいてもよかったのだが、まさかこんなしょうもないところでてこずるなんて思わないだろう。発表資料はすべて半角アルファベットで作ったので文字化けの心配はないが、データを自前のUSBから移し替えるときに他のデータがすべて化けてしまっていたのには恐怖を隠せなかった。
 そして僕はマイクを持って話し始めた。オンラインで参加している人もいるため、zoomに顔が映る位置に座り、画面も共有している。しかし、このzoomの顔画面の小窓がちょうどパワーポイント発表者ツールのカンペゾーンを邪魔し、僕のセリフがうまく読めなくなってしまっていた。これには慌てふためくのも無理はない。仕方がないので、紙に印刷しておいた方のカンペに切り替えて読み始めた。少し進んだところで違和感が沸き上がってきた。読んでいるところが違わないか、と。夢中に英語を音読しているだけなのでしばらく気が付かなかったが、1ページの切れる部分が違うのでおかしさを認めざるを得ない。パニックを起こしかけたが、zoomの小窓をドラッグで動かせることに気づき、そこからは平常通りパワポのカンペを見ることにした。なんという茶番に移っただろうか。こんなに大恥をかいたところだだが、たいていの人はあまり真剣に聞いていなかったので安心した。あとはオンラインで教授たちが参加していないことを願うばかりだ。
 致命傷を負いながらも、ひととおり発表は終わった。CRAZYは僕の顔を見ながらニヤニヤしていた。どうやら発表の様子を撮影していたらしい。37歳にもなりながら未だに悪ガキのままだ。続いて、何人か後にCRAZYの発表順が回ってきた。発表資料は順番ギリギリになってようやく完成していたようだった。もちろん原稿はほとんどない。勝手に撮られた仕返しに冒頭1分だけ撮影してあげることにした。初手から元気よく、そしてセリフはすべてアドリブなのでちょいちょい考える間をとりながら、愉快な発表をしばらく聞くことになった。半分眠たそうだった他の参加者たちも、突然声の大きい発表にびっくりしたのか、体を起きあげて面白そうに発表を聞いていた。発表の練習こそ積んでいないものの、注目を集めるという点では最高評価かもしれない。そんなアドリブの発表は、当然ながら発表時間を読むことができない。本来、15分程度でプレゼンし、残りの5分を質疑応答に回すのがこの学会の時間配分だが、CRAZYはしゃべっている途中で気分が乗ってしまったのか、19分くらい饒舌に語り続けていた。それでもまだまだ結論のページにたどり着きそうになかったので、司会者にあと1分だと忠告されていた。それでもなかなか締めなかったので、終わりはかなり端折り、質疑応答のところも司会者のコメント1つで終わっていた。なるほど、この手があったのか。たくさんしゃべれば尺の都合上質問が飛んでこないという作戦で乗り切ったということだ。彼はただただしゃべっているのが気持ちよくなっただけだろうが、いい作戦である。
 その後は2人リラックスしながら、お菓子を片手に残りの発表を聞き流した。

エメラルド寺院を求めて

 無事全員の発表が終わったので、これにてこの会はお開きだ。夕食を共に過ごすパーティーなどは無いので、現地で解散である。荷物を揃えて帰ろうとしたとき、僕に1人話しかけてくる人がいた。その人は日本の学生で、我々の教授のことを知っている人だった。学会ではこういう出会いがある。違う大学の研究室だろうと、研究テーマが似通っているので学会の場ではよく会う人となるかもしれないのだ。残念ながらその人はこの3月で卒業なのでこれで最後だが、徳島で会った人たちはこれから先もしかしたらまた会うかもしれない。ちなみにその人は、徳島の学会を拒んだらこちらに出せとそこの教授に言われたらしい。さすがに2連続では出していないようだった。
 ここから先はCRAZYと観光の時間である。空港でおじさんから教えてもらった"Wat Phra Kaew"(エメラルド寺院)を目指すことにした。ここから6km程あるので移動にはできれば何かしらの交通機関を使いたい。そこでそれを待っていたかのようにトゥクトゥクに乗ったおじさんが話しかけてきた。
「Hey! 乗らないかい?」
こんな感じで声をかけてきた。頻繁にいろんな場所で声をかけられてきたのでスルースキルは発達してきたが、今回ばかりは救いの一手となる。2人で乗れば割り勘できるので、実質半額だからだ。オープンカーのような解放感と渋滞を細かく潜り抜ける爽快感に、ある種の乗り心地を見出した。どちらかというと遊園地のアトラクションのような感じである。タクシーの運転手から見れば、我々2人のコンビは少し特殊である。それもそのはず、片や東アジア系の20代、片やアフリカ系の30代というよくわからない組み合わせだからだ。我々はいったい何者なのかという話題からいろいろ盛り上がり、目的地とは違う謎のお店でいったん降ろされた。まだお題を払っていないので少し困惑したが、話を聞くと、ここはタクシーの運転手が提携を結んでいる紳士服店で、少し安くしてくれるから入ってくれということだった。お店に入るや否や店員さんに案内され、様々なスーツを着時から見せてくれた。しかし、正直なところスーツは今はいらない。2人とも暑いからジャケットを羽織っていないだけで、何も貧しくてカッターシャツのみだということではない。これは2人して同じ意見だったため、適当な言い訳を考えてお店を出る準備をした。しかし彼らは営業熱心である。これが似合うよと言わんばかりにカタログまで持ってきたのだ。そこには青のジャケットや銀ピカのジャケット…まるで漫才師ではないか。おしゃれだとは思うが、今回は買わないという言いを見せ、店を脱出した。もちろん出入り口には先ほどのタクシードライバーが待っている。もう一度乗りなおし、再び寺院へと向かった。
 直接行くのもいいが、船に乗って川を渡りながら見るのはどうかと提案された。500バーツで1周できるらしい。それならばということでポートまで向かった。タクシー代は2人合わせて50バーツ。確かに2人以上ならコスパはいい。ここで運転手とは別れ、船着き場の窓口まで行くと、なんとお代は1人当たり最低でも1,500バーツからと言われた。なんだ、けっこうかかるじゃないか。タクシーの運転手がいい加減だったのか、それともこちらが観光客だとわかってぼったくろうとしているのかわからないが、高すぎて乗れないと断ってあげた。仕方がないのでここからは歩いて向かうこととなる。時刻は午後4時半頃、目的地まで5kmくらいだ。

He is the craziest.

 まあ5kmならと思い、歩いて向かうことにした。もちろん蒸し暑さは夕方になっても加減を知らず、カッターシャツが体に張り付いてくる。お互い学会のついでで来ているのでノートパソコンなどの荷物もリュックに背負って移動しているというのが、余計に徒歩移動の難易度を加速させる。CRAZYはケニア人ということもあってか、暑さにはめっぽう強い。僕も小中高とサッカーを続けてきた身として真夏の暑さには十分慣れているつもりではいたが、あまり得意ではない。代謝がよすぎるせいで汗が滝のように流れてくる。持っている水が足りるかどうかが心配である。暑さに悶えながらも、歩いていけば景色をゆっくり楽しむことができる。改めて、自然も文化も熱帯地方だ。濃い色の木々や濁った川、南国フルーツの出店をいろいろと写真に収めながら進んでいった。
 最初は楽しかった。CRAZYと一緒に写真を取り合ったり、思ったことを言い合ったりとさながら旅行気分だ。しかし、10歩進んでは
「写真撮リマース」
「写真撮リマース」

次第にノイローゼになってきた。確かに、景色は美しい。だがしかしそれ以上に暑い。塗った日焼け止めも剥がれ落ちるくらいに汗をかいていた。こんなに立ち止まっていたら一向にたどり着けそうにないので、少しずつ写真を断るようにしていった。そのうえ、CRAZYは学会用のリュック以外にサブのバッグはない。そのため、水を飲んだり、写真を撮ったりするたびにものを持っててくれと頼んでくる。暑くて心に余裕のなくなってきた自分はこれすらも受け入れられなくなってきた。そのため、道中で肩掛けバッグを買うことになる。しかし、時刻は16時を過ぎているため、たいていの店が閉まっている。大体どこのお店にも対応してもらえなくなった。CRAZYはしょんぼりしていたが、彼は素敵なバッグと出会ってしまった。お店に置いてあるもので、それを購入しようとしたら、やはり閉店時間を過ぎていると言われてしまった。しかし、彼にとってそのバッグとの出会いは運命的なものに等しく、簡単には勝負を降りなかった。この懇願というのか交渉というのかよくわからない直談判がうまくいき、売ってくれることになった。とここでまた問題が生じる。その店はクレカが非対応なのだ。つまり、CRAZYの持ち金では足りない。現金の入った財布を見せて、これでは買えないと駄々をこねたら、最終的には半額で売ってくれた。これが彼の会話術ということなのだろうか。お店を出るときはまるでおもちゃを買ってもらった子どものようだった。嬉しすぎてまたもや写真大会が始まった。しばらくは未知を通りすがるいろいろな国籍の旅人に自慢までしていた。よく海外旅行では知らない人にフレンドリーに話しかけられるということがあったりするようだが、実際に起きているこれがその一例なのだということだろう。まるで買ってもらったおもちゃを学校の皆に自慢する子どものようであった。まだ3kmある。本当に歩行でよかったのか。道中の綺麗な寺院にも寄り道しながら、へとへとな脚はただ前を目指すばかりであった。
 ここでまた、例の呪文が唱えられる。
「写真撮リマース」
もう嫌になってきた。ここまでペースを他人に乗っ取られることに嫌気がさしてしまい、僕はこれをもってCRAZYを置き去りにすることにした。お互いの歩きたいペースがあまりにも違いすぎる。呪文を無視して先に進むことにした。少し進めばCRAZYが点になるくらい距離ができていた。奴は相変わらず数歩歩いては写真を撮っているようである。
 エメラルド寺院はもう閉鎖していた。中には入れないので、外から概観を撮ることしかできない。折り返して帰る道中でまたCRAZYと合流した。その会話の一部始終がこちらである。(CRAZYのセリフは太字)
「なんでおいていったの?」
「君があまりにも遅すぎるからだ。」
「だって景色がこんなにきれいじゃないか。」
「暑くて耐え切れない。写真の頻度を減らしてほしいと頼んだはずだ。」
「Why?」
「君といるのは疲れる。自分勝手すぎる。」
「どこが自分勝手なの?」
身勝手さを自覚していない時点で、もう何を言っても無駄だと悟ってしまった。これを言い返せるだけの英語力は自分には無かったというのもある。思えば、英語の通訳者として連れてきたつもりが、なぜか自分が英語で話したりすることも多々あった。出発前の準備の時点で飛行機やホテルの予約にさんざん時間を取られてしまった。出発のギリギリまで予約していなかったため、金額が高くなってしまい、それでまた揉めたりもした。いろいろ手間のかかる問題児だった。挙句の果てにはホテルも、さらには帰りの飛行機までも勝手に違う便を取ってしまい、明日は一人で勝手に変えるようである。もう手に負えない。ここでまた彼とはお別れすることにした。以降は実質1人旅となる。皮肉にもCRAZYとのここまでの会話を通して、最低限何とかなる気がしていた。それに世の中には1初めから1人で海外に旅行する人も多い。それなら自分にだってできるはずだ。そう思って独り身になったら、疲れていたはずの足が異様に早く回るようになった。まるで離婚が成立して気が軽くなった独身貴族のようだ。これが自分に合った生き方なのかもしれない。新たな自分に出会えたような気分になり、また自分のできることが広がったような気分にもなり、心がすっきりした。

帰り道の苦難

 日が暗くなってきて、次第に暗くなる道をただひたすらに突き進んだ。ホテルへの帰り道はそんなに曲がらずに行ける。また5km歩くことになったのだ。脚は自動操縦モードに移行したので、意識がなくなっても目的地まではたどり着ける。しかし、今はただ、ただただ水が欲しい。できる限りコンビニのありそうなルートを探して帰ることにした。できればその道中で現金も補充したい。そう思ったが、銀行はもう軒並み閉まっているので街中のATMに頼ってみた。多少の手数料は構わない。200バーツだけでもいいからこの土地で使える通過が欲しかった。しかし、現実は思うようにいかない。キャッシュカードにクレジットカードなどいろんなカードを挿入して現金を引き出そうと試みたが、一向にうまくいく気配がなかった。現金での取引は諦めろという事なのか。ここで思い出した。そうか、だからCRAZYは現金を手に入れられないと項垂れていたのかということを。その点に関しては申し訳ないとおもったが、ここで現金が手に入らないのは致命傷である。小銭を数えてみたら、残り78バーツしかなかった。まず、コンビニで買い物ができない。厳密には買い物ができるが、クレカを使える金額にするために300バーツの無駄遣いをするなどのひと工夫が必要となる。それでも水が欲しい!そう思って9バーツの飲料水500ml1本だけ買った。残り69バーツ。これ以上使うと、明日空港まで行くお金が無くなってしまう。昨日の電車では、最初の1本目は終点まで乗る金額で45バーツ、乗り換えた後はいくらか必要になった。この後の飲食店はすべてクレカで賄うとして、電車に乗る金額だけでも死守したい。かと言って、空港へ向かう線は結構距離が長いので、この電車に乗れなくなるのはすなわち帰国できないことを意味する。まさか、暑さや脱水症状の他にこんなピンチが訪れるとは。CRAZYと別れてしまったので、タクシーの割り勘もできない。何なら、僕は彼にいくらか貸していた分もあるので、返してもらわないと現金が間に合わない。もしかして、別れたのは間違っていたのだろうか。とはいえここで再開するのはプライドが許さなかった。今はただ、ひたすらホテルへ帰るだけである。
 その道は初めて通るにしては見慣れたものだった。いろんな店が並んでいて、当然のように犬猫が野生でたむろしている。なるべく高そうな店は選ばないようにしようと思いつつ、気づけばホテルまで1kmを切ったところでよさげな店に入った。中では店員さんが席についてゆっくりしていた。クレカが使えることを確認したら6人掛けの大きな席に案内された。既にお皿もカトラリーも用意されていて、もしかして予約席なのではとも思ったが、まだそこまでお客さんが多いわけでもないので安心して席に着いた。メニューを見てみたら、ここはベトナム料理屋であることに気が付いた。タイに来てベトナム料理とは、まったく風情があるのかないのかわかりにくいところだが、食べてみたいものがいくつもあったので良しとしよう。とりあえず、フォーとビーフンを注文した。ついでに飲み物としてレモンソーダも頼んだ。これで一応300バーツも超えているので、コンビニのように金額が少なくてクレカが使えないといった事態も起きないだろう。
 出てきた料理は思っていたよりボリュームのあるものだった。特に量の指定はしていないが、日本だと大盛り判定されるくらいはある。それでも、味はやさしめで、そこまでのどの乾くような味ではなくすっきり味わうことができた。タイとベトナムはそこまで距離の離れた位置にあるわけではないが、料理の味は全然違っていてこれもまた面白い経験になった。機会があればぜひベトナムにも行ってみたい。
 食事中に、CRAZYから電話がかかってきた。どうやら彼は今、彼のホテルまでタクシーで帰ってきたようで、今なら借りていた分のお金を返せるということだった。断った。追加で1km、往復で2km歩く羽目になるからである。というかそもそも、食事中なのですぐに行くことはできない。こういった理由で断ったのだが、実際は奴が反省していなさそうだったのが気に入らなかったというこちらの感情もあった。自分も扱ったり余裕がなくなると感情で動いてしまうのか、と後日反省することにした。
 こうして何とかホテルに戻ってこれた。ホテルの1Fにお金を変換できそうな施設もあったが、行くとしたら明日だ。2Fのロビーで少しくつろいだ。なんて寝心地のいいソファーなんだ。こうやって汗だくの人間が横になることで、汚くなっていくのだろう。

明日の作戦

 ひとつ思惑通りにうまくいったことがある。それは飲料水のサービスだ。この部屋にはデフォルトで飲料水が500ml×4本あるのだが、これはちゃんと掃除のたびに補充するようだ。これが本当にサービスとして機能しているのかを試すために、実は朝に1本だけ冷蔵庫に隠しておいたのだ。連泊する部屋の冷蔵庫など、まともな清掃員ならのぞかないことだろう。仮に除かれたとしても水1本以外には何も入れていないので良かったが、こちらもちゃんと無事だった。つまり、よく冷えた水が1本と机の上に4本、飲み水が計5本も確保できているということになる。チェックアウトまでは今まで冷やしてあった1本、明日の日中はこの4本を持ち歩けば、もう水に苦しむことはない!今日のようにへとへとにはならずに済むだろう。残りの4本も冷やしておいた。
 シャワーは気持ちよかった。しかしぞっとしたことがある。それは、もしかしてシャワーを浴びることができるのはこれで最後なのではないかという懸念だ。こんなに暑い中を明日も歩かないといけない。明日は電車1線分、距離でいうと7km程歩いていくことに決めたので、体中に汗をまとうことになるのは確定している。こうなってしまうのも、空港であまりお金を交換しておかなかった自分が悪いのだが、それはいい教訓になったと割り切ることにしている。とはいえやっぱり汚いのは好ましくない。洗濯は諦めている。明後日は人に会うので、最低限の清潔感を持ち合わせていたいのだが、少なくともタイ国内ではもう無理なのだろう。こう思いながらベッドに飛び込もうと思った時、異変に気が付いた。なんと枕が朝のときより倍増し、4個もあったのだ。なんというサービス過多だろうか。頭の両横に枕を置くスタイルだと考えても2個あれば十分である。もしかして、誰かしらを連れてくるとでも思ったのだろうか。残念ながら、このキングベッドは自分一人の領土である。大の字、背伸び、グリコなど様々なポーズでくつろぎながら、ゆっくりとストレッチもしながら今日はもう休むことにした。



※1 本当は「学会」ではなく「研究会」と呼ばれる類のものであるが、ここでは学会呼びで統一する。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?