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【エッセイ】幸せジャンキー

タバコと幸せはよく似ている。

 他人がそれを持っていると、心の中では嫉妬の炎が燃え始める。ただ隣の煙は煙たいし、臭くてたまらない。自分の好きな匂いしかいらないのだ。だからこそ、それを謳歌する場所を制限したがるし、皆肩身の狭い思いをするのだ。区画を制限され、部屋を制限され、時間を制限され、幸せはほぼ完全に自分の空間でしか許されない。

 でも昔を振り返ってみれば、それはどこでも見られた。駅でも、家でも、オフィスでも、どこでもそれは立ち上っていた。多少臭くても、迷惑を感じても、お互い様だと受け入れてた。

 それに誰でも手にすることができたし、自販機で幸せを買えていた。僕も幸せのお使いに行ったことがある。だからこそ多少背伸びしようとする子供も多かったけど、今は幸せを感じる場所を探すだけで手一杯だ。皆自分の居場所を探している。

 また幸せは高くなった。幸せがプライベートなものになることに反比例するように、そして皮肉にも税金として公に対価を支払わなければならなくなり、20年前と比べて倍以上になっている。

 無論、過去に正義はない。昔は大雑把であったからこそ、シンプルで利便性もあった。今は複雑でめんどくさいが、小さく細かい煙にも目を向けられるのだ。だから、これはタバコの選択なんだ。

これから幸せをどこでも吸えるようにするのか、このままプライベートなものにするのか、或いはタバコを捨てるのか、帰路に立たされている。どこでも吸えるようにするには煙が嫌いな人を犠牲にすることになるし、このままプライベートなものにするためのお金や時間はもはや無いし、幸せを捨て去って人は生きれるか分からない。いずれにせよ最悪なのだ。だから今一番すべきことはひとつだ。それはどうせ最悪なのであれば、どれかをさっさと選んでしまうことだ。全てが上手くいき、誰もが幸せになれる社会も、そんな方法も過去もなかったし、これからも存在しない。というのもやはり、幸せもタバコも他者から見れば臭く、嫌われるものであり、根本的に、いや本能的に他者の煙は望まれていないからだ。

 この決断を鈍らせているのは、既に中毒に陥っているに違いない。一度手を染めるとそれを諦めることが難しく、やがてそれが無ければ日常生活なんてやってられない。
 それの量は特に幸福感には関係なく、むしろ少ない量でも継続してそれを持ち続けることが重要で、それを奪われると文句を言わずにはいられない。
 この状態は、もやは中毒という症状を超えていて、生物と細菌のように共依存の生態系を生成しているに違いない。

だからタバコは幸せの象徴だ。鳩では既に役不足になっている。

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