見出し画像

「長屋童」 (短編小説)

水の中に墨を落とすかのように、さっと暗い雲が江戸の空に拡がった。
「ひと雨来るな」
冷たく湿っぽい風に古びた木綿の着流しの合わせを直し、鷹島彦左衛門は家路を急いだ。
深川の貧乏長屋に着く頃には、すっかり本降りになり濡れ鼠になってしまった。

足桶で泥を洗い、手拭いで水気を切ると三和土(たたき)に上がり手探りで行燈(あんどん)に灯りをつけると、ぼうっと九尺二間の部屋が息を吹き返した。

広島藩九十石の中級武士の身分だった彦左衛門は、老中の謀反騒動に巻き込まれ江戸の片隅に蟄居(ちっきょ)することとなった。

一年、二年と、ただ時が過ぎ沙汰を待つ日々。
五年を過ぎた頃には、自分が利用されたことに確信を持った。
出奔(しゅっぽん)する際に渡された路銀は、切り詰めていたとはいえ既に底をつき、今は木彫り小物細工で糊口をしのいでいるといった暮らし向きである。

本人の性格もあるのだが、片付いたというより何も物がない部屋の中には今の生業である木彫りの木っ端だけが置かれている。
小さな鳥や猫を、荒いながら実に器用に彫られてあり、粗末な造り付けの棚や文机に控えめに置かれていた。

「ふぅ」と少し大きな溜息をつくと、夕食(ゆうげ)の支度も面倒になって手持ち無沙汰に木っ端を手に彫り始めた。

独りの夜は長い。
彫っていると様々な事が勝手に浮かんでは消えていく。

剣術道場通いの時分から他人にいいように使われて、最後に割を食う役割ばかりであった。

それでもいいと思っていたし、そういうものだとも思っていた。
ずっと独りで生きてきたし、これからも独りでひっそりと生きるのだろうと、どこか宿命めいたものを感じていた。
指先に伝わる、木の繊維を断つ感触だけが身体の中でこだまする。

ふいに目の端で何かが動いた気がした。

誰もいるはずのない狭い長屋である、そんなはずはない。
ことり、と小さな音がした方向に視線をやると、行燈の暗い灯りの中で何やら宙に浮いているものがある。

木彫りの小物細工の鳥であった。

部屋のいちばん奥の畳の上で、ふらふらと稚鳥が始めて飛んだかのような動きをしているのが確かに見えた。
彦左衛門が目を凝らすと、木彫りの鳥を持つ小さな手に気付いた。
やがて絣(かすり)の衣が現れる。

男児である。
前髪を切り揃えた幼児が楽しそうに木彫りの鳥を、まるで空を飛ばせているよにくるくると廻っていた。

「……」
物の怪や妖(あやかし)の類かと身構えたが、邪気が微塵も感じられない。
(もしかすると、これが座敷童なのだろうか……)
昔聞きかじったことがある。
童の姿をした妖が家に住み着くと、その家は繁栄を極めるのだという。

かような荒屋(あばらや)に座敷童が現れるはずもないと彦左衛門は頚を振ってみるも、男児の愛らしさにどこか和やかな気持ちになるのを感じていた。


やがて夜毎現れるようななった男児は、彦左衛門に笑みを投げるようになった。
それから彦左衛門と長屋童の生活が始まった。
木彫り細工を卸しに行った帰り、品川の茶屋筋の角で幾ばくかの金平糖を買い求めた。
どうなるかはわからないが、長屋童に供えとようと思い二間ほどの店に立ち寄ったのだ。
色とりどりの金平糖が鮮やかな江戸格子の紙袋に流れ収まっていく。

先程貰い受けた賃金で支払いを済ませると、久しぶりに頬が緩んでいるのに気付き、我ながら少しおかしく思えてきた。
袖の中で「ざっ ざっ」と小気味良い音をさせる金平糖が長屋童のよろこぶ顔を思い起こさせる。


風に乗って半鐘の早打ちが聞こえてきた。
どこかで火事があったのだろうと思う鼻に、きなくさい臭いも届く。
河岸外れの見慣れた辻に来た時には、野次馬が火元に向かう流れが見えた。

あっちには……。


人集りの向こうには轟々と燃え盛る見慣れた貧乏長屋があった。
「 ひ 彦さん、うちもあんたんちも、すっかり……」
隣の魚屋の政がへたり込んで、ほつれた銀杏髷を押さえ込んでいる。
纏(まとい)がせわしそうに消火に動き、竹の長梯子が行き交っていた。

童……  長屋の童はどうなった。
熱気が舞い上がる住まいであったものが目の前で別のものに変わっていく。
鍵棒を持つ纏を押し退け、どぶ板を飛び越え火の中に入って行った。

ざらりと、袖から金平糖が水溜りに落ちた。


鷹島彦左衛門は孤独であった。
世をはかなむ気力さえ喪った、出涸らしのような毎日であった。
お前が私に小さな「何か」を落としたのだ。
その波紋は日ごとに大きくなっていき、閑散とした水面に色が付いた。

梁が焼け落ちそうなわが家に入ると、いちばん奥の畳がまだ無事なのが見えた。
とっさに喉が震える。
「無事かっ!」

あれだけ薄暗かった部屋が業火で赤々と照らされる中、ぼうっと童が現れた。
どこか困ったような顔で、あっちに行けと手で合図を送っている。
ぱちぱちと爆ぜた火の粉が童の畳に降りかかっているのが見えると同時に、自らの髷も嫌な臭いで焦げているのに気付いた。

童は手首を返し、こちらに来るなと言っているようだ。
童の口元が何やら動くと、小さく引き結んで笑う。
焦げ始めた畳の中で、童が霞んでいくような気がした。
「行くな!」
どこかで焼け落ちた柱の重い音がした。





「はい、確かにお預かりしました。 それではこれを」
紀伊國屋清右衛門は浅葱の着物の懐から、袱紗(ふくさ)に包まれた金子を出す。
その恰幅と福々しい顔から、誰が見ても人柄の良さは隠せない。
「先生の作る木彫りは待ってでも買いたいと云うお客ばかりで、手前共もうれしい悲鳴を上げております」
粗末な湯呑みの横には心ばかりの茶菓子があり、主人の客人に対する想いが現れている。
「私は……  ただ、あの子のよろこぶものを彫っているだけでして……。 時勢など、とんと皆目検討も付かぬ朴念仁に過ぎませぬ」
そう言って頸筋に残る火傷の痕を軽く摩ると、部屋の奥を見やった。
「先生、憚り(はばかり)ながら手前どもは、先生に不自由させないだけの手間賃をお渡ししておると自負しております。  しかし何故、あそこだけ……」
そこまで言うと、大店の紀伊國屋清右衛門も奥を見やる。

相変わらずではあるが、簡素な部屋の奥に一枚だけ焼け焦げた畳が真ん中に敷いてある。
「ちゃん」
童が満面の笑みで戸口に飛び込んで来た。
前髪を切り揃えた幼児が、木彫りの鳥を手に木戸に飛び込んできた。
「こら、邪魔をしないの。 紀伊國屋さん、本当ごめんなさい」
家内が幼児を抱き止めて頭を下げると、紀伊國屋清右衛門も溢すように和やかに返す。


あの時見た長屋童は何だったのだろうと、彦左衛門は時折考えてみる。
あの童にそっくりなわが子を見るたび、この子があの時の自分に訪れてくれたのではないかと思うようになってきた。
吾子(あこ)もあの畳が気に入っているようで、木彫りの小鳥を手に日がな一日その一畳の中で遊んでいたりするのである。
たとえ、そうでなくとも事実「助けられた」のだ。
わが子が木彫りの小鳥を手に、路地に駆け出していく。
その木鳥の小さな羽根に桜の花びらまじりの風を羽織らせると、新しい仲間を誘うように雲雀が高い空に戯れている。

この町にも遅い春が来た。



鷹島彦左衛門は孤独であった。

いや。

鷹島彦左衛門は、かつて孤独であった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?