Childfood's End. 幼年期の終わり (雑記)
ふすまを閉め切った仏間の天井が、だんだんに木目を浮かび上がらせる前に目を覚ました。
おふとんをたたみ、朝いちばんのあいさつを仏壇にする。
母屋の裏に走っていき、顔と歯を磨く。
大人用の健康サンダルをかぽんかぽんさせながら、勝手口を開け台所に入る。
三和土に上がりサンダルを揃えると、それを見ていた祖母がうなずき、あいさつをする。
「たか、おはようありました」
あいさつを返すと、お味噌汁の味見をさせてくれる。
味を見ようが見まいが、毎朝美味しいに決まってる。
だから、どこか早起きの特権だと理解していた。
朝一番に、祖母と田の水を見に行く。
朝露で濡れてキラキラと光る畔の草は、歩く足元のサンダルをびちゃびちゃにする不快なものだった。
まだ薄暗く夜の終わり切らない早朝は、蛇や鹿が驚くほどいた。
山の斜面に駆け上がる鹿に手を振る自分に、振り向いた祖母はゆっくりと笑っていた。
過疎化が進むこの地域に、珍しいほど幼い子が広島からひとり、高速バスに乗ってやってきた。
上目遣いで、人のことを値踏みするような子は、いつも祖母と行動していた。
それ以外は納屋の書庫で、池波正太郎や海外のミステリー、落語本や辞書をずっと眺めていた。
親に棄てられてしまったと感じていた自分は、世の中に信じられるひとは祖母しかいないと思っていた。
そうだと思っていたし、それでいいと思っていた。
幼くして居場所を見つけられなかったその子は、祖母の世界がすべてだった。
いつしか祖母の背を追い抜き、誰かの背中を見て進むことをしなくなった頃、その子は自ら家庭を築くようになった。
幼い頃の、あんな想いは自分自身だけで充分だと胸に刻んで暮らしていた。
そんな毎日に突如、訃報が舞い込んできた。
「たかに食べされる」と裏の山の畑に野菜を採りに行き、階段を転落したのは知っていた。
何度もお見舞いに行き、ひ孫の顔を見て「ほんに(本当に)、たかのような 」と、あのゆっくりとした笑顔で頭を撫でていた。
本当に健康だった祖母の身体は、まさしく階段を転がり落ちるように弱々しくなっていったという。
眠るように最期を迎えた祖母。
「オレのせいだ……」
冷たくなり、死化粧を施された額と頬を何度も撫でて、感謝と後悔と懺悔と葬送の想いを巡らせていた。
田舎特有のにぎやかな通夜が終わり、煙草の臭いより線香の煙が優ってきた仏間に、祖母とふたりでいた。
この部屋は小さいその子には広過ぎて、彷徨う心を抱えるにはあまりに寂し過ぎた。
お神楽で使われる鬼の面と先祖の遺影が並んでいる、一種厳格な空気の部屋だった。
あの時と同じように、隣の部屋からゼンマイ式の振り子時計が低く時を打つ。
いつの頃からか、祖母を見ると、なぜか泣きそうになっている自分を見つけていた。
悲しい訳でもないのに。
それなのに、祖母の遺体を目の前にしてもなお、涙すら出ない自分自身に複雑な想いでいた。
「ごめんね…………」
冬の島根には珍しく、寒風の止んだ翌朝、祖母の煙が空に向かって真っ直ぐに昇って行った。
まるで薄い青空をふたつに別けるような、やわらかなラインが引かれていった。
気がつくと5歳になる息子が心配そうに顔を覗きこんでいた。
「大丈夫」と笑い返そうとしたが、上手く笑えなかった。
気がつくと、喪服のワイシャツの襟が濡れるほど、涙か止まらなくなっていた。
この子の歳にはひとりで島根にやって来たのだと、よく似た顔に自分自身が重なってしまう。
息子が、まるでどこかに行かせないような強い力で、太ももにしがみ付いていた。
その頭をやさしく撫でて、今度は上手く笑えるように頑張ってみた。
1月13日 永眠。
それがその子の、『幼年期の終わり』であった。
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