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「煌る墨痕」 (短編小説)



 ふたつの白い月が紫の空に朧げな孔を穿つ。

 月が重なるくらいに近づくけば、もうすぐ電磁嵐がやってくるとショウの12年間の人生経験でも告げていた。

 地下から続くタラップを上り、マンホールの蓋のずれたすき間に鼻をすりつけるように外の気配を感じようとするのが日課だ。

 テトラポッド型の砂つぶが渦を巻きながらマンホールの穴にまで吹き付け、ショウのゴーグルを叩きつける。

 マンホールから顔を出して、逆巻く風の中にオオヒトサライイヌの鳴き声が紛れてないか慎重に見回すと、ボロボロのコートの襟を立てて耳に砂が入らないようにして身を低くした。

 先週、ジェーンの弟ジョンがオオヒトサライイヌにやられた。

 姉のジェーンに六葉クローバーをプレゼントしようとして、ふたつある月のひとつ「守護月天」が翳ったのを気付かないまま夢中で探し続けたのだろう。

 緑一面のクローバー畑にジョンの左の手袋が、赤黒い染みの中央に落ちていた。

 ひとつ年上のジェーンはどんな想いで、その赤黒く固着した手袋を抱きしめたのだろう。

 子どもたちだけで暮らす地下の下水道であったコミューンでは、圧倒的な自然の猛威の前ではあまりにも無力だ。

 謎の病気で弱っていく者、突然帰らなくなる者、あるいはジョンのように外の生物にやられる者。

 ショウのコートの袖を掴み、振るえながら下を向いていたジェーン。

 振り向いたその光景が、今ショウに叩きつける砂嵐すら障害ではない。


 砂に埋まった瓦礫の手前、何か解らないが赤青緑のレンズのついた柱が折れ曲がっている袂の道で何やら動いた気がした。

 警戒を強めマンホールを出ると、ボウガンを構えながら近づいてみた。

 半分は砂で埋まっているが、四肢からすると人間のようだ。

 目の前にボウガンを構え、脚で倒れている人物の身体を蹴った。

 ……反応がない。

 薄汚れた外套とブカブカのハンチング帽、たすき掛けしたモスグリーンの鞄を大事そうに抱えたまま、胎児のように丸くなっている。

 一見小柄で、160センチあるショウと変わらないだろう。

 ショウは左手袋を外すと、外套の襟元に巻いた防砂ケープの中に手を入れ倒れている男の頸を触る。

 脈はあるが体温が低下している。

 手袋をはめ直すとボウガンを背中にまわし、決心したように大きなため息をついた。

 オオヒトサライイヌの鳴き声に警戒しながらズルズルとマンホールまで引きずると、いくつかの滑車に渡したフックに男のベルトをかけてゆっくりと降ろす。

 遅れてタラップを降りたショウは、集まってくる子どもたちに軽く挨拶をし慣れた手つきで台車を用意した。

 ガタガタと揺れる台車でショウの寝床にしているスペースまで運んでも、男は目覚めることがなかった。

 下水道管理用の小さなスペースではあったが、寝るだけなら充分なスペースだった。

 ゴーグルとケープを外し手袋を簡素なテーブルに放り投げると、引き出しから小瓶を出して蓋を外し男の鼻先へと持っていく。

 オオクマネズミのフンとクロヒマワリの汁を混ぜたものは極酸性で揮発性が高く、子どもたちの間では夜間の見張り番の眠気覚ましに使われているものだ。

 男は引き戻されたように目を覚ました。

 「あんた、死ぬ気か」

 ショウは男にカップを差し出す。

 砂と小石を積み重ねた簡素なろ過システムで作った水だ。

 男はこぼれそうな生命を繋ぎ止めようとするように、カップの水を一気に飲み干し驚くほどの無邪気な笑顔をこぼした。

 マンホールの中は孤児の世界。

 親を知らない子どもたちが、今日という日を生きてる。

 元気なったに男に、好奇心が原動力の小さな子どもたちが群がっている。

 勝手に鞄を漁ってる子どもが紙の束を見つけ、パラパラとめくっては首を傾げている。

 本を知らないのだ。

 文明が文字を忘れて何年になるだろう。

 大昔はコンピュータという物の中に言葉の大海があり、皆そこで波に乗ったり、時には溺れて死者も出たという。

 その大海には、お手軽な映像があふれ、いつでもどんな時でも人は安易に答えを手に入れた。

 いつしか人間は、文字を書かなくなり手が忘れていき、やがてその存在すら忘却の彼方に追いやられていった。

 「このかたちは……  なんだい」

 白い紙に書いてある黒い線の群れ。

 その流れるような太い線に、子どもたちは頭をこすり合わせるように覗き込んでいた。

 「ぼくの仕事は、文字書きさ。 ……って言っても分からないか」

 そう言うと外套のボタンをはずして、内ポケットから変わった棒と黒い塊を出した。

 棒の先には動物の毛のような束がついている。

 さっき水を飲んだカップの底から、数滴の水を平たい黒い塊の上に落とす。

 小さな棒状の黒い塊をその水に擦り付けると、マンホールの中に嗅いだことのない匂いが漂ってきた。

 「文字というものには魂、こころが宿るんだ。 どんな文字でもね」

 黒い塊の中の水がだんだん黒くなってきた。

 「この筆で文字を書いた瞬間、それは紙の中で生き物になるんだ」

 男は鞄のなかから折り目のついた紙をテーブルの上に拡げた。

 「そうだな……  きみの名前を書こうか」

 「俺、みんなからショウって呼ばれてる」

 男がゆっくりと目を閉じ深呼吸をする姿は、まるで何かの声を聞いているようにも見えた。

 やがて大きく息を吐き目を開くと、右手がふわりと動いてく。

 筆先に黒い水が染みると、紙の上にまるで決められたかのように迷いなく勢いよく走る。

 黒い皿に筆を置くと、さっきまで鋭かった眼が以前のやさしい光に戻った。

 「 飛ぶって意味の文字だ。 きみはマンホールの中から飛び立って生きてほしい。 そして、もっともっといろんな世界を識るんだ」

 紙の中の黒い線を見てると、胸のあたりがぼぅとあたたかくなってきた。

 今まで何度も恨んでは忘れようとした、見たこともない両親のことを想って視界が滲んだ。

 両手のそでを目に当てがったまま立ち尽くすショウのようすを全員が呆然と見た。

 「つ、 次は俺! カズってんだ」

 カズは左脚に付けた無骨な義足のことも忘れたのか、跳びつかん勢いで男に言い寄った。

 マンホールの中でも外さないカズのゴーグルの中で、目が輝いている。

 しばらくカズを見つめた男は、ゆっくりと眼を閉じて書き始める。

 「 仲良くして協力するという意味だよ。 みんなの面倒をよく見てるきみは、どんな場所でも仲間を作り、たくさんの笑いの中で過ごすんだ。 いいとこをたくさん足すという意味もあるんだ」

 始めての感情にどうしていいか分からず、カズはボロボロの靴で地面を蹴った。

 ボロボロの泣き顔で。

 それぞれが、男に自らの呼び名を託す中、隅でもじもじしてる女の子が男の視界に入った。

 ボロボロのマフラーと毛糸と思われる帽子の下には、黒目がちな瞳が遠慮を纏っていた。

 「君はなんて名前かな」

 「……メ、 メイファ」

 白い紙に、黒い線が歌い出す。

 「美華 きれいな花って意味だよ。 君は下を向かず、いつも太陽に顔を見せてごらん。 とってもきれいな花が咲くから」

 帽子を取って、上目遣いにすこし笑った。

 それを見たみんなの笑い顔が咲いていく。

 メイファのつぼみも。

 自らの名前を書いた紙を抱いて、嬌声を挙げながら走る子どもたち。

 鼻をつく臭いの漂う薄暗い下水道が、こんなに明るく笑いに溢れたのは初めてのことだ。

 最後にあの男が広場にしている壁に、ひときわ大きく書いて微笑んだ。

 「これは君たちに贈る呪文…… 願いのようなものだよ。 意味かい?」



 電磁嵐の止んだ朝、男はスナクジラの出る砂原に向けて出て行った。

 大きな鞄を大事そうに抱えながら、僕たちに何度も手を振りかえして。

 「『執古之道、以御今之有。 能知古始、是謂道紀』。 昔々の偉いおじいさんが書いた言葉なんだ」

 下水道のあちこちに、男の書いた紙が貼られていて、子どもたちがそれを見ながら笑っている。


 ショウは壁に書かれた長い「漢文」とやらをずっと見ていた。


 胸の奥が堪らなく温かくなり、頬が疲れていたことに気がついた。

 そっか、笑うと頬が疲れてるんだ……。

 あの男は、またどこかで黒い水で何か奇跡を起こしているんだろう。

 目の前の何かが急激に変わる訳じゃないけど、身の奥の何かが急激に変わる。

 そんな小さくて大きな、奇跡を。

 男は壁に書き終わると、今まで見たことないような笑顔で子どもたちを見渡した。

 壁の文字を見ながら、やわらかに置くように漢文の意味を漂わせる。

 「不幸だと思っても、本当はすでに持ってる幸せと感じるこころが働けば、今の幸せを見つけられるんだ」






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