「ポチの一生」 (短編小説)
今日、ポチが死んだ。
あれは何年前だろう、年明け早々のテストの採点で遅くなった雨の夜だと記憶している。
傘を持つ手を打つ雨の痛さに、走ることを躊躇わせる少し高いヒールを選んだことを後悔していた。
バイパスの高架下に崩れかかった箱。
中で何かが動いた。
濡れたダンボール箱から見えた眼には、生命の灯が申し訳なさそうに揺れている。
濡れた身体をタオルで拭き、あったかいミルクを出してやると、うれしそうに飲んだ。
余程寒かったのかつかれていたのか、リビングの隅で丸くなって寝てしまっていた。
……。
名前を聞いてみたことがあったが、黒目がちの瞳を困ったように少し伏せるだけだった。
便宜上名付けた「ポチ」は、助けて貰ったという恩を感じているのか、私の言う事をよく聞いた。
命じるまでずっとお座りしたまま、私にその黒目がちの眼を向けているのである。
今まで付き合った男は、やがてすべてを束縛しようと迫ってきた。
もう男は……いい。
相変わらずリビングの隅で控えめに寝ているポチを見ながら、グラスの中のワインをゆらゆら回してみた。
毎朝起こしに来るポチが、その朝は来なかった。
ベッドサイドの椅子の背にかけた薄いカーディガンを羽織りリビングに入ると、聞き慣れない小刻みな音が聞こえた。
「はっ はっ はっ……」
胸を上下させながら、ポチがフローリングの上に横たわっていた。
あの黒目がちの瞳は、どこか焦点を失っているかのようだ。
今日は我が校の卒業式。
私が受け持つクラスの子らが巣立つ日だ。
休む訳にはいかない。
ポチの口の中に薬を入れ毛布をあるだけ出すと、そそくさと身支度をして出勤した。
すべての生徒を送り出し、同僚との謝恩会も一次会で切り上げて帰宅したのは日付けが変わろうとする直前だった。
リビングの真ん中でポチが寝ている。
玄関まで出迎えがないことを叱ろうと、その鼻に触った。
冷たい。
少し酔っていて、死が孕む独特の臭いに気が付かないでいたのだ。
「どうも病死みたいですね」
警察の現場検証を終えて、検死官と刑事が事務的に伝えてきた。
日をあらためて任意で事情聴取をすると伝えて、刑事たちはドアから消えてく。
結局、身元の分からない男を同居させていたことが何度説明しても理解して貰えなかった。
ポチのたたんでくれた洗濯物がクローゼット前に積み重ねてあるのが見える。
私の留守中に磨かれた食器たち。
拾われた犬の分際で、私の命令がないのに勝手に手の届かない処に行くなんて。
今度逢ったら、たっぷりお仕置きしないと。
ベランダに出るとポチの仕分けてくれたゴミが見えた。
なぜかワインを開ける気になれず、グラスに入れたホットミルクを人差し指で回しながら、ぼんやりと灯る満月に掲げてみる。
遠くで電車の規則正しい通過音がどこか湿って響く。
滲んだホットミルクは、少ししょっぱい味が足されていた。
今日、ポチが死んだ。
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