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『ペルシアン・ブルー26』

   32 アルタクシャスラの章

 アルタクシャスラ王子の一行が何とか無事に大砂漠を抜け、最初のオアシス村にたどり着いて、泉の周囲で野営した翌日のことだった。熱い日差しの中、遊牧民の格好をした男たちが駱駝に乗り、砂丘を越えて近づいてくる。

 親衛隊長のアルシャーマが合図を見ると、ゾルタスとその部下だった。旅人と世間話をするふりで、王子はアルシャーマとウィダルナ、ガウバルワを連れ、棗椰子の木陰で面会する。

「ご無事で何よりです、アルタクシャスラさま」

 ゾルタスは昨夜のうち、この村に配置した情報提供者から、報告を受けていたらしい。飼い馴らした猛禽の足に目印をつけて放せば、連絡は早い。

「姫を取り戻されたそうで、安堵しました。しかし、この先は叔父上の兵が巡回しています。王子の隊列を見たら、ただちにあちこちの町に配置した兵を集めて、行く手をふさぐ態勢です。向こうの手勢は四千。こちらより練度は落ちますが、真正面からぶつかるのは、得策ではありませんな」

 やはり、そうなったかと、アルタクシャスラ王子は眉を曇らせた。

「叔父上は、兄上の側に付くのだな」

 覚悟はしていた。だが、こちらは砂漠越えを果たしたばかりで疲労しているし、途中で死者や怪我人も出している。すぐに戦闘というのは避けたい。

「アルタクシャスラさまが魔物退治を果たして生還するようなら、エジプトにいるうちに始末するという、内々の約束が出来ているようです」

 ここから先は、戦闘と謀略の繰り返しだ。アルタクシャスラ王子は、ただ帰国するだけではない。現在の皇太子を排除し、帝国を乗っ取るという野心を胸に秘めているのだから。

 だが、それは、パリュサティスの理想を実現するためである。今の王子には、その道を進むことに迷いはない。

(わたしが夫でなければ、パリュサティスの才覚を生かすことはできないのだ……)

 近くの質素な天幕から、パリュサティスが出てきた。男装の上に日除けの布をかぶった姿だが、もはや少年と間違える者はいない。赤毛の髪はきっちりと編んでまとめているが、細かった肢体には女らしい柔らかさが加わり、花開いたような美しさだ。首には緑の宝石が輝き、双眸の美しさを引き立てている。

「ゾルタス、来てくれたのね」

 瘦身の男は感動を隠せず、砂地に平伏した。

「お待ちしておりました、姫。必ず、無事にお戻りになるはずだとわかっておりましたよ」

「ありがとう。アナーヒター女神と……ミラナのおかげです」

 兵たちには、ミラナの自己犠牲があって魔王を倒せたのだと語ってある。しかしゾルタスには、後で真相を告げてもよいだろうとパリュサティスは思っていた。ゾルタスはミラナのことを悼んでから、頭を垂れて言う。

「この先も、アナーヒター女神のご加護がありますように」

 ゾルタスにとっては、パリュサティスこそ希望の星なのだ。もしもパリュサティスなしで自分が生還してきたら、それこそゾルタスには許されなかっただろうと、アルタクシャスラ王子は冷や汗をぬぐいたい気分である。

 パリュサティスはゾルタスから説明を聞くと、迷いもせず、にっこりした。

「兄さま、あたしが数人の供だけ連れて、先に行くわ。兄さまたちの部隊は魔王と戦って全滅、助かったのはあたしと数人だけ、ということにするの」

 アルシャーマも小隊長たちも、唖然とした様子である。

「それなら、叔父さまも油断するはずよ。パルサの王宮に連絡を取って、あたしの処置をダラヤワウシュ兄さまに相談するでしょう。殺すか、それとも婚儀をやり直すか。その間に隙をみて、あたしが叔父さまを殺すなり、脅すなり、人質に取るなりします」

 ここまでくると、男たちはただ、頷くだけである。パリュサティスは、やると言ったことは確実に果たすであろう。

「兄さまたちは、少人数に別れて町に入って下さい。こちらがのろしを上げた時に、総督邸に奇襲をかけて下さればいいわ。叔父さまと側近さえいなくなれば、残りの兵たちは、こちらの味方につけられるのではないかしら」

 アルタクシャスラよりも、ゾルタスの方が満足げににんまりした。

「では、我々は総督邸の周囲で、姫の援護につきましょう。使用人の中に何人か、使える者がいます」

 彼と部下たちが準備のために去ってから、アルタクシャスラ王子はパリュサティスを振り向いた。

「おまえに、危険なことはさせたくないが……」

「それは、あたしも同じよ。兄さまに戦いなんか、させたくないわ。でも、お互い、できることをしなくては」

 再会してからわずかな日数の間に、この娘は大輪の花のようになったとアルタクシャスラは思う。女王に相応しい気品と威厳も備わってきている。パルサの都へ戻ったら、誰もが瞠目するだろう。

「今のそなたを見たら、兄上も惚れ直すだろうな」

 黒髪の王子がほろ苦い気持ちで言うと、パリュサティスは明るく笑った。

「いずれ、国中に惚れてもらわなくてはなりませんもの。それでは、また後でね」

 背伸びして王子の頬に口づけすると、アルシャーマとウィダルナに微笑んでみせ、くるりと背を向けて天幕の方へ去っていく。

 さすがに、ミラナと別れる時はわんわん泣いたが、今はもうしっかりしたものだ、とアルタクシャスラ王子はひっそり微笑んだ。この娘と一緒なら、わたしはおそらく、どんな戦いも乗り越えられる。

「いやはや、まばゆいばかり」

「毎日お熱くて、我々は、どっちを向いたらいいのか困りますな」

 アルシャーマとウィダルナ、ガウバルワが、からかう顔でにやにやしている。王子は照れ隠しの咳払いをした。

「こちらも準備にかかろう。兵を分散させて、遊牧民の格好をさせなくては」

 王子の部隊が無事だったことを知るこの村は、総督を何とかするまで封鎖しておく必要がある。その後は、魔王退治をしたという宣伝を振り撒きながら、都へ帰還するのだ。兄王子を葬るために。 


  33 スメニアの章

 ペルシアの領土の北のはずれ、もう一つ山を越えればサリールの故国というあたりで、あたしたちは目立たない谷間に降り、付近の村から馬や装備を調達してきた。まさか、絨毯で王宮に舞い降りるわけにはいかないもの。

 アルタクシャスラ王子にも、魔女の援護があったことは、少数の側近以外には内密にと頼んである。噂が広まって、戦や陰謀に利用しよう、ということになっては大変である。あたしたちは、いずれアルタクシャスラ王子の回顧録にでも、一行さらりと書かれ、おぼろな伝説になるくらいでちょうどいい。

「今夜はここに泊まって、明日、山越えしましょう」

 あたしが森のはずれの草地に天幕を張り、サリールが火を起こし、ヤスミンが川から水を汲んで食事の支度をした。

 考えてみれば、楽しい旅だった。サリールもすっかり雑用に慣れて、ヤスミンの指示で料理を手伝っている。鍋の上で香草をちぎるヤスミンの細い首には、大粒の真珠の首飾りがかかっている。これを見る度、あたしたちは、三百年かかった大冒険を思い出すことになるのだろう。

 麗しい義母上の待つ宮殿に着いたら、サリールもそのうち、残り二つの願い事を思いつくだろうし。

 それをかなえてやったら、あとはヤスミンと二人で、小さな島でも探しに行こう……あたしたちだけの、素敵な島を。

 肉と野菜を香辛料で煮たシチューを食べ、しばらく談笑した後、サリールは自分の天幕に引き取った。

 前は、サリールとあたしが衝立をはさんで隣り合わせに寝ていたけれど、ヤスミンが加わってからは、彼には別の天幕で寝てもらうようにしていた。何しろ三百年ぶりなのだから、あたしはヤスミンと思う存分、くすくす、いちゃいちゃしたいのだ。

「ねえ、氷浸けにされる前、あいつに何か、変なことされなかった?」

「変なことって、どんな?」

「たとえば、こういうこと。それとも、こうかな」

「きゃ、いやん、もう」

 ところが、ふざけながら寝台に倒れ込んだと思ったら、

「そうだわ。ねえスメニア、今のうち、王宮の様子をのぞいてみたら?」

 聡明なヤスミンが、用心深く言い出した。

「もしかして、王子の留守中に、何か様子が変わっているかもしれないわ」

 もっともな心配なので、あたしは水晶玉を取り出した。まだだいぶ距離はあるけれど、それでも、大勢の人の集まる都や、王宮の気配を読むことは楽にできる。それらの波動を、水晶玉に投影する技術は、昔から一族に伝わっている。

 夜とはいえ、都の通りにはまだ人が溢れ、夏の夜を楽しむざわめきが伝わってきた。よしよし、戦や飢饉の気配はない。

 王宮にも異変はなく、侍女や臣下や兵士たちが普通に行き交っている……と思ったけれど、奥では彼らは足音をひそめ、声をひそめていた。病人でもいるのかしら?

「サリールは、王子はまだか……」

 もしかして、病床についている白い髭の男性は、サリールの父王ね? やつれてはいても、落ち着いた品格があるわ。二十年前なら、ちょっかい出したいタイプだったかもしれない。

 けれど、今は医師や侍女たちが付き添い、励ましたり薬を飲ませたりして、だいぶ〝気〟が弱っている……

 これは、待たずして、サリールがお妃を手に入れられることになるかしら。別に、王の死を願うわけではないけれど、寿命なら仕方ないものね。

 けれど、回復のための祈りを捧げようとした神官を、横になったままの王が、わずかな動作で引き止めた。

「もうよい、それほど長らえようとは思わぬ。あれが先に待っておる……」

 え、あれって、誰?

「あれ以来、お食事もあまり口にされなくて……これでは、お薬の効果がありませんわ」

「やはり、お妃さまのことがずいぶん……」

 侍女たちや側近たちが小声で交わす言葉を聞いて、あたしは愕然とした。

 まさか、サリールの愛するお妃が!?

 あちこちでささやかれる話を集めると、どうやら、お妃が幼い王子たちと、離宮に遊びに行った時のことらしい。前のお妃の遺した幼い王子たち、つまりサリールの実弟たちを、義理の母であるお妃はとても可愛いがっていたようである。

 ところが、風の強い晩に火災が起きてしまった。奥で眠っていた王子たちを助けようとして、いったんは外に逃れたお妃が、侍女たちの制止を振り切って、再び炎の中に飛び込んだという。

 王子たちはやがて、乳母や侍女に守られて別の出口から逃げ出してきたけれど、お妃はそのまま戻らなかった。

 結果的には、無駄な死に方だったといえるかもしれないけれど、夜中の火事場の混乱を考えれば、彼女の判断を責めることは誰にもできない。血のつながらない子供たちのために命をかける、そういう女性だから、王にも、義理の息子にも深く愛されていたのだろう。

 もう、二月近くも前のことだ。国をあげての葬儀も済み、国民たちもようやく平常の生活に戻ったところらしい。

 だけど、どうしよう。

 これを、どうやってサリールに伝えよう。

 あの坊やのことだから、泣くわ、荒れるわ、自棄になって、とんでもない願い事をしたりするんじゃないかしら。

「でも、隠しておくわけにはいかないわ。明日の朝まで待つのもだめ。わかった以上、すぐに話すべきよ」

 ヤスミンが言うので、あたしは嫌々ながら、サリールの天幕を訪れた。けれど、あたしが声をかける前に彼は寝台から起き上がり、まっすぐな瞳であたしを見据えたのである。こういう時の人間の勘には、恐ろしいものがある。

「国元で、何かあったのか」

 覚悟を決めた顔で、静かに尋ねられては仕方ない。あたしは、わかったことを話した。お妃が、サリールの弟たちを助けるために、自ら炎の中に引き返したことを。

「責任感の強い人だったのね。王さまはもう年だし、あなたの留守に、何かあってはいけないと思い詰めたんでしょうね……」

 あたしは慰めの気持ちをこめて言ったのだけれど、寝台に腰かけたサリールは、不気味なほど静かにつぶやいた。

「すると、ぼくが砂漠をさまよっていた頃のことか……」

 そして、そっけない口調で言う。

「残りの願い事、二つとも決めた」

 はっとして止めようとしたあたしの前で、彼は自棄のように言ったのだ。

「一つ、父上の病を治してくれ。一つ、義母上を生き返らせてくれ」

 うう、そう来るんじゃないかとは思ったわよ。

 そりゃ、父王の病気は、一時的には何とかなるかもしれないわ……あたしが〝気〟を吹き込めば。

 でも、年齢的な衰えはどうしようもないし、絶望している人に、生きる気力を与えることも難しい。

 あたしだって、もしもヤスミンが先に死んだら、その後、いつまでも生き永らえようとは思わないもの。

 それに、死体も残らなかった人を、どうやって甦らせるというの?

 あたしがミラナを助けられたのは、ミラナの生命力がまだ体内に残っていればこそで、黒焦げの消し炭から、お妃を作り上げることはできないわ。たとえ、形だけそっくりに作ることができても、それは、サリールの愛したお妃ではないでしょう。

 父王の手当てはしてみるけれど、お妃のことは無理だと言うと、サリールは冷笑した。

「それじゃ、ぼくを殺してくれ」

 ああもう、なんでそうストレートにグレるのよ!!

 けれど、もはや彼には、平静を装う気力もないようだった。

「おまえが邪魔しなければ、ぼくはあの砂漠で死ねたんだ!! あの時死んでいれば、きっと義母上の魂と一緒になれた!! そうだ、きっと義母上がぼくを呼んだんだ!! ぼくを一緒に連れていこうとしてたんだ!! それなのに、おまえなんか助けたから、天に昇り損ねたじゃないか!!」

 そんなこと言われたって、どうすりゃいいのよ。あたしがサリールに救われたのは、運命だわ。サリールが、そこまで生き延びたのも運命よ。

 お妃が死んだのも、あたしたちには、どうしようもないことじゃない。

 むしろお妃は、砂漠をさすらうサリールの、守り神になってくれたのかもしれないでしょう。

 そうだわ。

 だからこそ、サリールがあたしと巡り会えたのかもしれない。

 だとしたら、彼女はあたしとヤスミンすら救ってくれたのだ。いえ、姫もアルタクシャスラ王子も、ミラナも魔王も、ラガシュールまでみんな。

「ねえ、もしかしたら……」

 そう、彼女は本当は、若くて一途なサリールを愛するようになっていたかもしれない。王を裏切って、義理の息子の腕に飛び込む誘惑にかられていたかもしれない。

 けれど、人間の女が、一回り年下の青年と、長く連れ添うことは難しい。

 今はまだ若く美しいから、サリールも熱烈に愛してくれるかもしれないけれど、十年経って容色がはっきり衰えたら、彼ももっと若い娘に心を移すのではないか?

 たとえその時でも、サリールなら、年上の妻を冷淡に扱ったりはしないだろうけれど、それでも彼女としては、ずっとそういう不安に脅えていなければならない。それよりは、包容力のある年上の王の側にいて、このまま穏やかに老いていく方が幸せではないかと考えただろう。

 そして、生きているうちは精一杯、老王のよい妻でいた。幼い王子たちにとっても、よい母であろうとした。死んで魂だけになった時、はじめて心おきなく、サリールの元へ飛んでいけたのでは。

 もちろん、お妃が実際にどう考えていたか、本当のところはわからないけれど、でも、そういう風に思ってみれば……

 あたしはそう話したのだけれど、サリールにとっては、やはり、どうしてもあきらめがつかないことなのだろう。わずかな時間の間に、年若い王子は、魔王のようにすさんだ顔つきになっていた。

「ぼくを殺せないなら、どこかに消えてくれ。父上の病を治したら、二度とぼくの前に現れるな。それが最後の願いだ。これ以上おまえの顔を見ていたら、ぼくはおまえを殺したくなる!!」

 そんな、一時の感情で、貴重な願い事を浪費するなっていうのに……落ち着いたら、後悔するに決まってるでしょ。

 けれど、いつの間にか、ヤスミンがあたしの隣に立っていた。

「三つの願い事は神聖なものです。わたしたちの一族は、はるかな昔から、そうして人間たちとの関係を守ってきました。いったん決めてしまったら、もう訂正はききません。サリール王子、本当にそれでいいのですね」

 普段は花のように愛らしいヤスミンであるが、こういう時には女神のような威厳がある。あたしでも、口ははさめない。サリールもやや気押されたが、むっつりした顔のままで、

「訂正はしない」

 と言った。ヤスミンはおごそかに宣言する。

「では、わたしたちは先に都へ飛んで、お父上の手当てをします。その後はそのまま消えますから、ここでお別れです」

 それがあたしたちとの永遠の別れになると悟って、サリールは、さすがに愕然とした顔になった。そして、ためらい、うろたえ、何か言いたそうに口を開きかける。

 けれど、やはり自尊心の強い青年、みっともない真似はするまいと考えたのだろう。魔王などにはならない証拠に、態度を改めた。

「ひどいことを言って、すまない……本当は、わかってるんだ。誰のせいでもないって。義母上は、みんなに愛されて、精一杯の人生を生きたって……」

 あたしはほっとした。

 よしよし、それでこそ、あたしのお気に入りのサリールよ。

「ここまで、色々ありがとう‥‥‥きみたちも、どうか元気で」

 こわばった顔ながら、彼はきちんと別れの言葉を述べた。あたしもヤスミンの手前、もはや未練がましい態度はとれない。人間と精霊との蜜月は、既に終わっている。あたしたちはもう、無制限に人間の願い事を聞くわけにはいかないのだ。

「あなたも元気で、立派な王さまになってね。遠くから、祈っているから」

 サリールはもう、大人になった。あたしがついていなくても、立派にやっていける。新しい若い王が誕生するのだ。それを祝福しよう。あたしが落ち込むと、あたしの中にいる連中も暗くなるものね。

 あたしは彼の頬に軽い口づけをして、天幕を出た。サリールの馬や荷物や天幕はそのままにして、あたしたちの天幕だけを香水瓶にしまう。ヤスミンが、絨毯を広げて待っていた。焚火の側に立って見送る青年の前で、あたしたちは夜空に浮き上がる。

 切ない瞳で見送るサリールに、あたしも、

「さよなら」

 と言うだけで精一杯。真っ暗な地上に小さな焚火と、立ち尽くす若者を残して、あたしたちの絨毯は、星で一杯の夜空に舞い上がった。地上はたちまちはるか下方に遠ざかり、小さな焚火も、木々に隠れて見えなくなる。

 彼は今夜一晩、一人で思いきり泣き明かすだろう。そうして明日には都へ駆けつけ、世継ぎの王子が戻ったことを知らせて、民を安堵させるはず……

 約束通りに夜の空を、サリールの父王のいるささやかな都へと向かいながら、ヤスミンがそっとつぶやいた。

「考えようによっては、いい別れ方だったかもしれないわ。このままずるずる側にいると、離れる時が余計辛くなるもの」

 賢明なヤスミンの言う通りだ。でも、あたしはもう少し、サリールと付き合えるつもりだったから……ほんのちょっと、寂しい気がするだけよ。

「王さまの病気を診るついでに、王子の帰りを待っている娘を探してみない?」

 あたしの気持ちをわかってくれるヤスミンが、微笑で提案してくれた。

 それはいい考えだ。

 生きて帰るかどうかわからない王子のことなんか忘れて、新しい恋人を作っている娘ばかりかもしれないけれど、一途に帰りを待ち続けている娘も、もしかしたら、一人くらいはいるかもしれない。以前のサリールは、自惚れの強い遊び人だったけれど、それでも、女をいたわることを知っていたから。

「そういう娘がいたら、ちょっとくらい応援してもいいわよね」

 あたしが言うと、ヤスミンも微笑で認めてくれた。

「ええ、ちょっとだけ、物陰からこっそりね……わたしたちの姿が王子の目に触れなければ、願い事に反することにはならないもの」

 こういうヤスミンがいてくれるから、あたしは慰められる。力づけられる。

 いつか、サリールの苦痛も薄れるだろう。身近にいる娘の愛情に癒されるだろう。あたしたちは時々そっと舞い戻り、サリールと、その子供たちを陰から見守っていけばいい。

 愛する兄王子と共に、争いの待つ都へ戻っていったパリュサティス姫も、魔力を失った男と暮らすミラナも、それぞれの人生を精一杯生きていく……あたしとヤスミンも、いつか、死の翼に触れられるまで、二人で世界を飛び回るだろう。

   ***

 ミラナと元魔王は子供や孫に恵まれ、穏やかな生涯を過ごした。サリールも立派な王になり、心優しい妻を得て、最後までペルシア帝国との友好関係を保った。

 けれど、その帝国で『諸王の王』となったアルタクシャスラ王子のほうは――

 妻になった姫と共謀して、老いた父王を毒殺し、その罪を兄のダラヤワウシュ王子に着せて処刑する、という血塗られた即位だった。大規模な内乱を招くよりはまし、という政治的判断だったのだろうが、酷いことだ。

 その報いというわけではないだろうが、しかし、二度目の妊娠で、彼は最愛の妻を失った――理想の王国を築くための、かけがえのない戦友を。

 どうやら子宮外妊娠で大量出血を起こし、あっという間の最後だったらしい。後からそれを知ったあたしとヤスミンは、幾度か王宮を訪れて、失意の王を慰めたけれど、それほどの損失を埋められるはずもない。

 彼は悲嘆のあまり、こんなことなら結婚などせず、ずっと兄妹のままでいるのだったと、我が身を責めていた。いっそ、自分が兄に殺されればよかったと。

 でも、それは自分たちの意志で選んだ道。

 潔いパリュサティス姫は、そこまでの幸福に感謝して、死ぬことができたと思うのよ。短い年月とはいえ、愛する男性の妻として暮らし、自分の夢をも追うことができたのだから……

「いつか、女がお産で死なずに済む世の中になるわ」

 あたしは彼に語った。

「女が安心して出歩ける時代、姫の理想が実現する日が、きっと来るはずよ。だから、あなたもどうか、そのための努力をあきらめないで……」

 けれど、孤独と重責に耐えて、四十年もの治世を生き抜いた彼の死後、帝国は身内の争いを繰り返して、ゆっくりと衰退していった。

 やがて、マケドニアの若き王が進軍し、パルサの聖都、壮麗なペルセポリスは炎に包まれる。

 アルタクシャスラ王が、あたしたちのことをさりげなく書き記した文書も、その炎の中に失われた。彼が妻を偲んで、各地に建てさせたアナーヒター女神の神殿も、やがて家父長制の宗教に侵食されていく……

 それから幾度か、あたしとヤスミンは、失われた都の上を、絨毯で通り過ぎたことがある。

 人は去り、記憶は失われ、紺碧の空の下、乾いた高原に、白い石の柱が立ち並ぶ廃墟が広がるだけだった。そこがアケメネス王朝の都であったことを人々が突き止めるのは、実に二千年の歳月が過ぎた後のことである。


    『ペルシアン・ブルー』 完

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