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『ペルシアン・ブルー18』

  23 パリュサティスの章

 明け方の薄闇の中で、半分まどろみながら、パリュサティスは思い出していた。

 子供の頃、よくアルタクシャスラ兄さまと一緒に、野営の焚火を囲んだものだった……満天の星。兵たちの談笑。馬のいななき。肉と脂の焼ける香ばしい煙。

 兄やアルシャーマから機密の地図を見せてもらったり、星座にまつわる神話を聞かせてもらったり。やがて一日の疲れが出て、パリュサティスは兄にもたれてうとうとしはじめる。

(そうしたら、兄さまはあたしを抱き上げて、そっと天幕へ運んでくれるのよ。そして、あたしを守るように添い寝してくれる……)

 自分はいつも、兄に見守られているという確信があった。だから、どんな冒険にでも乗り出せた。いつだって兄さまが後ろにいて、困った時には助けてくれる……

 ――だめだ、いけない。

 目尻に流れた涙を、ぐいと手で拭った。感傷に浸っていたら、動けない。岩山の部屋に光が射すと、パリュサティスは自分を励まし、起きて身支度した。少なくともミラナの前では、常に『頼れる主君』でいなくては。

(思い出があるだけ、ましなのよ)

 自分は魔王の腕の中から、〝地球〟を見た。どこまでも深い闇の中で、ただ一つだけ、青く美しい、貴重な世界。

 人は生まれた時から、楽園にいるのだ。皆がそれを知らないのなら、自分が伝えなければならない。

(楽園に生まれたことが、神の恩寵なのだわ)

 人は神に愛されている。それならば、ちっぽけな怒りや憎しみ、恐れに囚われることはない。この楽園にいられる間、出来ることをすればいい。

(あたしは恵まれすぎていた……王家に生まれたことも、兵たちに守られることも、当たり前と思っていた。でも、それだけで、途方もない幸運だったのよ)

 不本意な婚約に縛られるまでは、自由な少女時代があった。多くの娘たちには、それすらもないだろう。生活のために働き、父から夫に譲り渡され、妊娠や出産で命をすり減らす。優しい夫なら尽くす甲斐もあるだろうが、そういう男ばかりではない。

(世の中の不幸を減らす……そのために、女たちの地位を上げる。それが、あたしのすべきこと。たとえ、アルタクシャスラ兄さまに見捨てられたとしても)

 パリュサティスは考えた末、日中は、なるべくミラナと離れて過ごすようにした。釣りをしたり、岩登りの練習をしたり、岩の通路を探険して、新たな部屋を発見したり。

 地下の氷室への階段にも、こっそり降りてみた。確かに大きな岩が落とされて、階段を塞いでいる。隙間から下は覗けるものの、自分がくぐり抜けられるほどの間隙はない。

「仕方ないわね」

 パリュサティスは、石の目を読むことを知っていた。石工たちから話を聞いたことがあるし、工房を見学したこともある。そこで、古い家具を削って、木の楔を幾つも作った。古い鉄の短剣を使って岩を削り、楔を打ち込む。石の目に沿って、毎日、数箇所ずつ。

 そして、打ち込んだ楔に水を注ぎ、いつか楔が膨張する力で、岩を割ってくれることを期待する。自分の打ち込んだ楔に、それほどの力があるかどうかは確信が持てなかったが、作業をすること自体が救いになった。

 躰を使うと、頭も動く。食欲は出るし、夜もぐっすり眠れる。

 魔王が岩で地下の氷室を閉鎖したことには、きっと意味があるのだと思えた。死んでいる人なら、魔王が恐れる必要はない。そうではなく、眠っているだけだとしたら。

 氷の中のあの女性は、魔王の弱点を知っているかもしれない。だからこそ、厳重に封じられているのかも。

(もしかしたら、魔王より恐ろしい魔女かもしれないけれど……それでも構わない。もし、あの人が目覚めてくれたら、事態が変わるかもしれない)

 魔王が自分の手下になることは、期待していない。そんなに簡単に、世界が変革できるわけがない。

 だが、打てる手は、全て打っておくべきだ。

 ミラナと二人、老女になるまで、ここで静かに暮らすという想像もできるが、自分には、したいことがある。まだ若さの力があるうちに、脱出の努力だけはしなくては。

 巨大な帝国を変えることは無理でも、どこかの村で、子供たちに何かを教えるくらいは出来るだろう。あるいは自分もミラナも、いつか子供を持てるかもしれない。その子たちに、何かを伝えられるかもしれない。そうすれば、少しずつでも世界は変わる。

 それに、もう一つ、魔王には付け入る隙がある、とパリュサティスは見ていた。

 彼は、パリュサティスが見ていない時には、ミラナの所へ現れるらしいのだ。そして、ミラナに冷たいことを言ったり、ちくちくと脅したりするらしい。まるで、いじめっ子が好きな女の子を狙うように。

 ミラナを餌にするのは気がひけるが、優しくて聡明なミラナと話すことで、あいつが少しでも心をほぐしてくれればいい。

(あいつがその気になれば、あたしたちを人間の村に送り届けてくれるくらい、簡単なことだもの……)

 パルサ本土から、助けが来るという期待は持っていなかった。父王も皇太子も、魔物にさらわれた女など、取り戻す値打ちもないと考えるのではないか。ましてアルタクシャスラ王子は、とうの昔に自分を見捨てたのだ。

(あたしはただ、大勢の異母の妹の一人というだけ……それ以上のことを、期待したのが間違いだったのよ)

 ただ、王の命令で、属州からの軍隊が来るくらいはあるかもしれない。帝国の面子のために。

 しかし、軍隊が魔王とぶつかれば、たちまち蹴散らされるだけだ。怪我だけで済めばいいが、兵たちが全滅したりしては、あまりにも申し訳ない。自分とミラナが、兵たちの重荷になるのもまずい。

(脱出のための手立ては、できる限り考えておかないと……)

 ただ、そうしてミラナと離れて過ごす時間が長くなってくると、ミラナの顔が日々、暗くなってくる。ため息が深くなってくる。パリュサティスは困った。

(あたし、ミラナに、ひどいことを強いているのかもしれない……いくらミラナでも、耐えられる限度があるわ)

 ある夕暮れ、二人は焼いた魚と野菜、パンと豆のスープの食事を終え、小さな焚火をはさんで座っていた。パリュサティスは釣りの腕前も上がり、庭園の池から、立派な魚を取れるようになっている。

「あたし、漁師でも暮らしていけるわ。パン職人もいけるわね」

「姫さまは本当に、何でも出来る方ですわ」

「ミラナだって、すっかり野菜に詳しくなったじゃない?」

「畑を耕して、暮らしていけそうです」

 緑の庭園は闇に沈んでいき、ゆらめく炎だけが手元を照らす。周囲にそびえる山地は暗く、その上には金色の三日月がかかっている。

「今夜も、星がきれいですわね」

 ミラナは静かに言って、あとは虫の音に聞き入る様子だ。パリュサティスはさんざんためらってから、思い切りをつけ、尋ねてみた。

「ねえ、ミラナ、もしかして、あの男、あなたに〝悪さ〟をしていない?」

 庭園の闇の奥をみつめていたミラナは、ぎょっとしたように振り返った。

「いいえ、姫さま、そんな……そんなこと、ありませんわ」

 否定の仕方が、やはり怪しいとパリュサティスは思う。

「でも、あいつ、あたしが側にいない時に、あなたに〝会いに来る〟んでしょ」

 てきめんにミラナは体をこわばらせ、悲痛な顔になった。やはりとパリュサティスは思い、同時に、これ以上聞いてはいけない、と自分を戒める。怖いのは、そのことでミラナが自分を責め、思い悩んで、突発的に自殺でも図りはしないか、ということなのだ。

 男どもは、

『清らかな乙女』

 だとか、

『貞淑な妻』

 だとか、誉め言葉のように言うが、それは大抵の場合、所有物としての女に値段をつける行為でしかない。いったん『傷もの』になってしまえば価値がない、などと平気でほざく奴らなのだ。そして、悲しいことにそういう価値観が、当の女たちにも染みついてしまっている。

「あのね、何も言わないで……言わないでいいから、あたしの言うことを聞いて」

 揺らめく炎に照らされ、パリュサティスは言葉を探した。ミラナを傷つけない言葉。でも、そんなもの、あるんだろうか。

「何があっても、それはあなたのせいじゃないの。魔物なんかの根城で、呑気にしていたあたしが悪いのよ。ミラナはあたしの大事な侍女で、これからも、ずっと側にいてくれないと困るんだから。そんなの、転んですりむいたのと同じことで、その時は痛くても、そのうち忘れてしまえるはずだから……いえ、忘れられなくても、薄れていくはずだから……」

 本当だろうか。

 嘘だ、とパリュサティスは自覚している。

 自分がダラヤワウシュに犯される覚悟をした時は、絶望的に悲しかった。もしも魔王が現れてくれなかったら、どうなっていたか。皇太子を殺せなかったら、自分を殺して終わりにしていたかもしれない。好きでもない男には、指一本触れられたくないのが、女の本性だ。

「いいえ、姫さま、違うんです……そんなことは本当に……」

 ミラナは力なく言うけれど、やがて、手で顔を覆ってしまった。残酷なことをしてしまった、とパリュサティスは後悔する。

「ごめん、もう二度と言わないから。その代わり、今度から極力、ミラナの側を離れないようにする。水汲みも野菜摘みも、全部一緒に行く。だから、今夜から一緒に寝ようね?」

 もっとも、魔王がミラナを襲いたい時は、自分がいたところで、役には立たないという気はするが。

 自分がそういう意味で襲われていないのは、たぶん、彼の好みではないからだろう。ミラナの方が美人で女らしいから、気晴らしに舞い降りては、弄ぶ……

 ――ああもう、まったく、男というのは呪われた種族だわ。奴らは、女を苦しめるためにだけ存在するのかしら!!

(そんなことはない、と、かつてあたしに示してくれたのは、他でもない、アルタクシャスラ兄さまだったのだけれど……)

 パリュサティスは、ぶるっと身をふるわせた。

(兄さまのことを考えていたら、前に進めなくなってしまう。誰かに頼ろうなんて、二度と思ってはいけないのだ。あたし自身が頼られ、すがられる存在にならなくてはいけないのだから)

 そういう覚悟を持たなければ、何一つ成し遂げられないまま、人生が終わってしまう。

 もし、何とかしてパルサの都へ戻れたとしたら、貴族や商人や兵士たちを、できる限りたくさん味方につけるのだ。皇太子だろうが、誰だろうが、邪魔者はみんな殺して、玉座に手をかける。

 父王はもう高齢だし、他の王子たちもたいした器量ではない。主だった貴族たちに餌を撒けば、この自分が『女王』になることは、決して不可能な夢想ではない。

 そして、欲得ずくの貴族たちが、自分を『操りやすい小娘』と思っているうちに、本物の力をたくわえればいい。

 自分だけに忠誠を誓う軍隊。そして民の人気。どんな方法でだろうが、権力を握るのが先決だ。そうすれば、

『弱い者が泣かずに済む国』

『女子供が売り買いされずに済む国』

 を作れるかもしれないだろう。身勝手な男たちに任せておいたら、永遠にたどりつけないだろう理想の国を。

   「ペルシアン・ブルー19」に続く

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