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源氏物語より~『紫の姫の物語』9

  


 11 桐壺院の章


 あれはまだ、あの子が少年の頃。元服して、間もない時期だったと思う。内々で神泉苑しんせんえんに出向き、深山幽谷しんざんゆうこくを思わせる池のほとりを巡りながら、供人を遠ざけ、二人きりでしみじみ語り合ったことがある。

「いつか、話してやらなければと思っていた。そなたの母が、どうして死んだか」
                                
 それは、わたしのせいだった。毒殺にせよ、病死にせよ、女たちの間にそこまでの怨嗟えんさを広め、更衣こういを追いつめさせたのは。

「泣いて里へ帰りたいと言った時に、その通りにしてやればよかった。わたしの方こそ、そなたの母にすがっていたのだ」

 帝という地位にいる意味が、まだよくわかっていなかった。多くの女たちを侍らす身であれば、誰も泣かずに済むよう、満遍まんべんなく気をつかうべきだったのだ。彼女たちはそれぞれ一族の期待を背負って、懸命に務めていたのだから。

 あの頃のわたしに、それだけの知恵があれば、弘徽殿こきでんも、あれほどかたくなな女になることはなかったろう。

「そういう道理が、若い時のわたしにはわからず、一途に桐壺の更衣だけに打ち込んだ。他の女たちがどう思うか、配慮するゆとりがなかった。おかげで今も、弘徽殿とは仲直りできないままだ。そなたは、わたしと同じ間違いをしてはならぬ」

 臣籍に降ろした息子に、わたしは語った。余人を交えず、男と男の立場で。

「男というものは、周囲の女人の幸せに責任がある。関わった女性には優しくして、余計な不安や悲しみは持たせないように努めなさい。母が不幸だと、子供もまた不幸になってしまう。それでは、世の中に不幸が広がるばかりだ」

 利発な少年は、真剣な顔をして聞いていた。この若さで、わたしの言うことがどれほど沁みるかはわからないが、とにかく、話せる時に話しておかなくては。

「はい、父上。大丈夫です。わたくしは、女の人を泣かせたりいたしません。いつか子供ができたら、その子のこともしっかり守ります」

 りきんで言うのが可笑おかしくて、つい、からかった。

「そういえば、近頃、六条に通っているそうだな。子供ができる気配はあるか?」

 まだ背丈も伸びきっていない少年は、みるまに赤くなり、うろたえた。

「あの、それは、そういうことではなくて……六条には、ただ世間勉強に……あそこには、教養の高い方々が集まるので……」

「よい、叱ったわけではない。あの方は立派な貴婦人だ」

 わたしの弟宮が愛した方。東宮であった弟が早世しなければ、中宮に昇られていたかもしれない。

「礼儀正しく振る舞って、色々と教えていただくといい」

 この子にしっかりした後ろ盾をと思い、左大臣の姫と結婚させたが、まだ双方が若いので、うまくいかないこともあるだろう。しっかりした年上の女性に導かれる方が、若い男には望ましい。

 この子だけは、幸せにしたかった。更衣のことを守りきれず、死なせてしまったことは、取り返しのつかない過ちである。せめて、形見の息子だけは守らねば……

「桐壺さま。お目覚めでいらっしゃいますか。お薬の時間でございます」

 ひそやかな声に起こされた。桐壺の更衣。いや、藤壺の中宮か。わたしは時々、二人を混同してしまう。

「夢を見ていた……」

 左右から女房たちに抱え起こされ、幾つもの丸薬と、苦い薬湯やくとうを飲む。何を飲んだところで、もはや尽きかけた寿命だというのに。

「どんな夢をご覧でしたの」

 若い妻は、わたしの横に付き添い、微笑んで言う。更衣ならば、もっと老けているはずだ。わたしと釣り合いよく。

「昔の夢だ。まだ若かった頃の。源氏の君は少年だった。りりしくて、きまじめで。東宮も、大きくなったら、ああいう姿になるのだろうな」

 藤壺の生んだ東宮が即位して、次の帝となる。その日までは生きられまい。

 もう、一日の半分、夢の中にいるようなものだ。目が覚めてからも、今がいつなのか、しばらくわからない。とろとろとまどろんで、少年の頃に戻ったり、青年の頃に戻ったりしている時間が、実は救いなのかもしれない。

「院は、まだ男盛りでいらっしゃいますわ」

 藤壺は、強いて笑顔で言う。だが、自分が老人だということは、自分でよくわかっている。若い妻を迎えると、こちらもつい気が若くなるが、肉体は確実に老いているのだ。無理な気の張りは、余計な疲労を招く。

 しかし、わたしと同年輩の弘徽殿の大后は、まだまだ壮健そうだ。宮中に君臨して、若い帝をびしびし叱り付けていると聞く。今はまだ、わたしがいるから、あれでも遠慮しているのだろうが。

「そなたと東宮のことは、源氏の君に、くれぐれも頼んである」

 もう何度も言っただろうことを、また繰り返した。しつこいとわかってはいるのだが、言わずにはいられない。

「帝にも、源氏の君を政務の柱とするよう、よく言い聞かせてある。わたしがいなくなっても、何も心配することはない」

 唯一の気掛かりは、弘徽殿がどの程度、昔の恨みをひきずっているかだった。

 そもそもはわたしが悪いのだから、わたしだけを恨んでくれればよいのだが、それだけでは済まないらしい。桐壺の更衣が憎ければ、更衣の生んだ息子も憎い。更衣によく似た藤壺も憎い。藤壺の生んだ皇子も憎い。

 弘徽殿の息子、朱雀帝すざくていは気弱な青年だ。悪気は少しもないが、母が強く何か言えば、それに逆らえない。頼みの左大臣も、かなりの年齢になっている。そういつまでも、現役ではいられまい。

 最大の政敵がいなくなれば、あとは狷介けんかいな右大臣が幅を利かせることになるだろう。右大臣も年だが、弘徽殿と同様、壮健だからな。

 自分でつい、苦笑してしまった。心配を始めると、きりがない。後は若い者に託して、楽をするつもりで退位したのに。

 豪奢な夜具に埋もれて仰向けに横たわったまま、枕の上でつぶやいた。

「思ったほどは、時間がなかったな。こんな病人になっても、まだまだ見足りないと思ってしまう。山も川も、空も海も……わたしは自分の治める国を、隅々まで見て回ったこともないのだ。もう十年若ければ、内密の旅もできただろうが……」

 すると、藤壺は黒い瞳を潤ませ、袖で顔を隠す。やはり、わたしがもう長くないと思っているのだ。

「これから、いくらでも、お出掛けになれますわ。暖かくなりましたら、まず、あちらこちらに参詣さんけいに参りましょう。湯治とうじもよろしゅうございます。珍しい景色をご覧になれば、お気が晴れましてよ……」

 と言う声が、はっきりと濡れている。

「泣いてもよいが、顔は見せておくれ」

 わたしは笑って言った。本当に、あとどれだけの残り時間か、わからない。できるだけ長く、愛する者を見つめていたい。

 すると藤壺は泣き笑いになり、しばらくこらえていたが、やがて、衾の上に泣き伏した。声を殺し、肩を震わせている。わたしは手を伸ばして、その髪を撫でた。しっとりと重く、艶やかな漆黒しっこくの髪。

 男の人生を慰めてくれるものは、結局、女なのだ。帝であっても、ただの下人げにんであっても、日々の食べ物があり、雨露をしのぐ屋根があれば、あとは、気の合う妻と暮らせるかどうか。

 いや、気が合うと思うこと自体、女たちがこちらに合わせてくれるための錯覚なのかもしれない。男というものは、知らず知らず、女にその努力を強いているのかもしれない。
                               
 その努力が報われないと思い、我慢が限界に来れば、弘徽殿のように、男を憎み、さげすむ女になってしまうのだろう。

 あれも、入内じゅだいしてきた当初は、初々しい姫だった。わたしの好みを覚え、話を合わせようとして、懸命に詩文を学び、琵琶や琴の稽古をしていた。衣装も香も道具類も、わたしを喜ばせようとして吟味していた。

 そうして尽くされることを当たり前と思い、きちんと感謝しなかったわたしが悪い。

 この藤壺には、間に合うように、感謝を伝えておかねばならなかった。女盛りの年月を、ひたすらわたしのために捧げてくれたのだから、残りの歳月は、自由になってくれてよいのだと。

「そなたはまだ若い。わたしがいなくなっても、簡単に出家などしないでおくれ」

 と笑いに紛らせて言った。

「六条の御息所みやすどころのように、邸を構え、才女や文人、貴公子を集めて、気ままな日々を楽しんでいいのだよ。それに、源典侍げんのないしのすけをごらん。いつまでもあのように、心を若く保つのが理想だね」

 藤壺は、黙って首を横に振る。苦笑しているらしい。源典侍とは、例が悪かったか。老いてもなお美しく着飾り、背筋を伸ばして色好みを誇り、若い貴公子と浮名を流すくらいの方が、頼もしくてよいと思うのだが。

 光君と頭の中将、双方から熱烈に求愛されたという話は、いささか眉唾だとしても、望んで噂の中心になるだけ、立派ではないか。

 わたしは横になったまま手を伸ばし、白い柔らかな手を握った。

「そなたを長いこと、更衣の身代わりにしてしまった。だが、不平を言わず、よく尽くしてくれた。可愛い皇子も生んでくれた。利発で素直で、本当によい子だ。おかげで、わたしはこの上なく幸せだった。更衣は更衣で、そなたはそなたで、同じくらい愛しているのだよ」

 男は複数の女人を愛せる。ならば、女人も複数の男を愛せるだろう。それは、巡り合わせである。誰も愛さず終わるより、悲しんでも、苦しんでも、愛のある人生を送る方がはるかによい。

「わたしがいなくなっても、そなたがめそめそせず、楽しく過ごしてくれるのがわたしの願いだ。わかったね」

「はい」

 涙を拭きながら、愛しい妻は懸命に微笑む。この美しさに若い男が迷ったとて、どうして責められよう。それほど気にすることはない、と言ってやりたかった。東宮がわたしの子ではないとしても、わたしの孫ではあるのだから。
                                
 本当なら、わたしは源氏の君を帝位に即けたかった。しかし、右大臣家の思惑おもわく、弘徽殿の女御の敵意があっては、到底かなわないことだった。だから、その夢が、次の世代でようやく実現するのだともいえる。

 だが、藤壺が懸命に守ろうとしている秘密だ。わたしは最後まで、知らない顔をしていよう。あとは源氏の君が、どんなことをしてでも二人を守るだろう。昔、赤い頬をして、わたしに誓ってくれたように。

   「紫の姫の物語」10に続く

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