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源氏物語より~『紫の姫の物語』10

12 紫の姫の章

 寒いと思っていたら、夜中のうちに雪が降ったらしい。

 朝になったら、庭は白く真綿をかぶったようになっていた。わたくしは貴婦人らしく、あまり端近はしぢかには寄らなかったけれど、それでも、女房たちが格子こうしを上げた時に見た。池は凍り、木々の下や立石の陰は、深い吹きだまりになっている。前栽せんざいの山吹は雪の重みでうなだれ、岩躑躅いわつつじは丸い岩のよう。

 空はまだ厚い雲に覆われているけれど、白い光を閉じ込めているから、暗くはない。たまにちらちらと、小雪が降りかかる。着馴れて柔らかくなった直衣のうし姿のお兄さまが、妻戸つまどまで出て外を眺め、几帳きちょうの陰にいるわたくしを呼んだ。

「紫の上、こちらへ来てごらん。見事な雪景色だよ」

「……」

「そんな奥にいないで、ここまで出てきたら」

「……」

「雪遊びは好きだったろう。景色だけでも、見たら?」

「……」

 お兄さまは、頑固に口を閉ざしているわたくしを、何とか楽しませようと考えたらしい。何人ものわらわたちを庭に下ろして、雪遊びをさせることにした。

 集められた下働きの子供たちは、きゃっきゃと喜び、さらの雪の上に手形や足跡を付けたり、雪を集めて山を築いたり、うるし塗りの折敷おしきの上に、可愛い雪うさぎをこしらえたりする。無邪気な女の子たちが、とりどりの衣を着て庭中に散っているのは、確かに絵のような眺め。

 雪はまだ、それほどの深さには積もっていなかったけれど、それでも手で握った雪玉を転がしていくと、大きな丸い玉になる。それを二つ重ねて、人の形に見立て、笹の葉を腕のように差したり、顔に炭で目を入れたり。

 お兄さまは簀子縁すのこえん高欄こうらんに寄りかかって、楽しげにそういう遊びを眺め、

「紫の上、あなたは遊ばないの」

 とひさしの間にいるわたくしを振り向いて言う。わたくしは几帳きちょうの陰にいて、お兄さまがこちらを見ていない時だけ、そっと隙間から庭を眺めている。

 わたくしを、あの子たちと同じ子供だとでも思っているのかしら。この寒いのに、どうして、はかまうちきをからげて庭に降りなくてはならないの。こんな日は、奥で火桶ひおけに囲まれているのが一番よ。

 それは、わたくしも去年までは、ああして雪まみれになって、夢中で遊んだものだけれど。今はもう、できない。お兄さま本人が、わたくしの子供時代を終わらせてしまったのよ。

 もちろん、いつかは大人にならなくてはならないのはわかる。でも、せめてもう少し、気長に導いてほしかった。わたくしは本当に怖くて、惨めな思いをしたのだから。

 わたくしが几帳の陰で黙っていると、お兄さまは落胆したようなため息をついた。これ以上どうすればいいのだろう、と思いあぐねている様子。

 わたくしも、ちょっぴり心が弱り、

(そろそろ、一声くらい聞かせてあげても)

 と迷ったけれど、いったんしゃべってしまったら、もうおしまい。お兄さまは、わたくしに許された、と思うだろう。そしてまた、わたくしを甘く見て、好き勝手な真似を始めるに違いないのよ。今でさえ、既に十分、好き放題しているというのに。

 その時、寝殿の方から、お兄さま付きの女房たちが渡ってきた。いつも優雅な彼女たちが、かなりの急ぎ足。少し離れた所で揃って平伏し、こわばった顔で言う。

「光君さま、院の御所からのお使いが参っております。あちらにお戻りを」

 直感が働いて、わたくしは、お兄さまの様子が見える位置までいざって出た。お兄さまもまた、驚きを通り越し、何かを覚悟した顔になっている。こんな風に来るのは、決して、よい知らせではない。

 わたくしをちらと見てから、お兄さまは腰を上げ、無心に遊ぶ子供たちを残して、ご自分の居室に引き上げていった。わたくしは、何か言うべきだったかもしれない。慰めか、励ましか。

 でも、何が言えるの。

 お兄さまを許さない、と決めているくせに。

 いいえ、違う。本当は、とうに許している。これだけ大事にされて、怒り続けていられるはずがない。わたくしは確かに、愛されているのよ。

 ただ、怖いだけ。この愛着が、いつまで続くかわからないから。

 本当に安心しきってお兄さまに甘えることが、もうできない。わたくしは、そんなに強くない。いつか捨てられる覚悟をして、それでもなお、楽しく毎日を過ごすなんて。

 ***

 ――桐壺院、ご逝去せいきょ

 その知らせに都中が驚き、涙に沈んだ。退位なさっても、やはりまだ、この世のかなめでいらしたから。わたくしもまた、

(こんなことなら、もっと早くお目にかかっておくのだった)

(お兄さまと仲直りして、御所に連れていってもらえばよかった)

 と悔やんだけれど、もはや手遅れ。お兄さまから聞くお話だけでも、とても大きな、慈愛深い方と想像できたのに。お兄さまのためにも、もっと長生きしていただきたかったと、しみじみ思う。

 世間の人もみな、お心の広い院を慕っていたから、それぞれに思い出を語り、悲しんでいるという。あちこちの邸を使者が行き交い、お兄さまの元へも、慰めのお文が集まってくる。

 お兄さまの元からも、藤壺さまや東宮さまへ、また、兄君であられる主上うえさまへ、お悔やみの文を持たせたお使いを出した。左大臣さまや頭の中将さまからのお文にも、それぞれお返事を差し上げなくてはならない。お付き合いのある宮家や、貴族の方々からのお文も、そのまま放置するわけにはいかない。

 それにしても、お兄さまの受けた打撃は大きかった。震える手で筆を取り、必要な文をしたためるのがやっと。あとは何も考えられないようで、

「父上、なぜこんなに早く」

 と顔を押さえてしまう。初めは声をこらえていたけれど、しまいにはしゃくりあげ、身を投げて、手放しの悲しみようだった。まるで、小さな子供に戻ったかのよう。自邸だから、いくら取り乱してもいいけれど、女房たちも驚いているわ。

「光君のあんなお姿、初めて見ましたわ」

「本当に、院をお慕いだったのですね」

「まあ、何というお嘆きようでしょう」

 と、もらい泣きする者もいる。少納言もまた、わたくしにそっとささやいた。

「お気持ちの汚れていない方なのですわ。男の方には珍しい」

「そうね……」

 それはある意味、当たっている。

 普段は、優雅で能天気な色男。

 でも、本質はこれ。
                               
 見守ってくれる人がいるから、安心して遊んでいられるという子供なのだ。大きな庇護ひごを失ったら、みるまにしょげかえり、どうしていいかわからない。

これ・・が〝天下の柱石〟だなんて、世間の人々こそ、お先真っ暗だわ)

 もはや跡継ぎの息子もいる立派な殿方だというのに、いつまでも甘ったれで情けないけれど、目の前でぐしょぐしょ泣かれては仕方ない。わたくしは横に座り、背中を撫でて、慰めてやった。

「無理もありませんわね。お母さま、お祖母さまの亡くなった後、ずっとお手元に置いて下さって、元服まで育てて下さったお父さまですものね。退位されてからも、何かと気にかけて下さっていましたものね。本当に、お優しいお父さまでした。わたくしも、心から残念に思います」

 すると、お兄さまははっとした様子。

(口を利いてくれた!! 何か月ぶりだろう!!)

 と驚いたのだろうけれど、その安堵もすぐにまた、圧倒的な悲しみに押し流されてしまった様子。気をゆるめて鼻をすすり上げ、わたくしの膝にしがみついてくる。

「そうなんだ。小さい頃は、いつもお膝にまとわりついていたんだよ。どこの局を訪ねる時も、一緒に連れていって下さった。母上の思い出話もして下さった。立派な後見役も付けて下さった。葵の上が亡くなった時は、わたしの食事の心配までして下さったんだ」

 わたくしだって個人的に悲しいし、天下国家の行く末を思って大いに心細いのだけれど、これだけ先に嘆かれてしまっては、慰めたり、励ましたりする役しか残っていない。

 そういえば、お祖母さまに死に別れた後、わたくしも、

『お祖母さまのところへ行くう』

 と転がって泣いて、少納言たちを困らせたっけ。

 あの時は、少納言を筆頭とする女房たちが、自分たちの悲しみや不安を後回しにして、わたくしを慰めてくれたのだと、ようやくわかった。人はこうして、順送りに役目を引き継いでいくのね。

「ええ、わかるわ。わかるわ」

 肩を撫で、鼻をかむための紙を差し出してやり、切れ切れの思い出話を聞いてやった。まったく、女房たちでは、とても世話しきれない。泣いては鼻をかみ、また鼻をかみ、あたりは丸めた畳紙たとうがみの山。

 こんな姿、世の女性たちが見たら、夢が壊れるわ。光源氏の君といったら、天上の貴公子、理想の男性だと思われているのだもの。

 もちろん、その貴公子の側にいるわたくしには、理想の男なんて存在しない、とわかっている。これ・・が最上の男なら、後は推して知るべしという感じ。

 桐壺院や左大臣さまは、それぞれ温厚な人格者だとうけたまわって、遠くからご尊敬申し上げてきたけれど、この甘ったれ男を甘やかしすぎたという点では、政治家としての計画性に欠けると言うしかない。

 もしも、わたくしがこの人の庇護者だったら、自分が亡き後、人々が頼れる指導者として立てるよう、もっと厳しく教え育てていたわ。

 とはいえ、それでもまあ、泣きも苦しみもしない鈍感男や冷感男よりは、はるかに素直で、可愛げがあるというものでしょうね。

「行かないで。ここにいておくれ」

 と、しがみつかれてしまうと、無下むげに振り払うことはできない。そのまま一緒に夜を過ごしたら、驚いたことに、こんな時でも、わたくしを求めてくる。まるで、溺れかけた人が救いを求めるようにして。わたくしの乳房の間に顔をうずめている時だけが、安心していられる時なのかしら。

 ぐったり疲れた様子で寝入ってしまった姿を見ながら、密かに思った。

(これからは、わたくしが庇護者なんだわ)

 わたくしより背が高くても、腕力があっても、この人の中身は、親に甘えたい幼児と大差ないのだもの。

 本当は、心を鬼にしていったん突き放し、一人で耐えさせるべきなのかもしれないけれど。

 でも、はたして男性というものに、それだけの力があるのだろうか。母に頼り、妻に頼り、娘に頼り、それでやっと形を保っているのが、男性というものなのでは。

 わたくしは世間に出たことがなく、男性といえば、お父さまとお兄さまの他に、惟光これみつ良清よしきよくらいしか知らないのだけれど、女房たちから、噂話だけはたっぷり聞いている。

 景気のいい空約束ばかり繰り返して、実際には少しもあてにならない男。都合が悪くなると、ふいと逃げてしまう男。逆に、暴力で女を黙らせようとする男。実力もないくせに、威張りたがりの男。普段は小心なのに、酔った時だけ威張る男。

 もちろん、広い世間には、立派な男性もいるのだろうけれど、それはあくまでも例外、という気がするほど、情けない男が多い様子。

(この人は、まだましよね)

 わずかな明かりの元で、深い眠りをむさぼるお兄さまの寝顔を見ながら、わたくしは考えていた。自分が〝まし〟程度に思われているなんて知ったら、自惚れ屋のお兄さまは、びっくり仰天するだろうけれど。

(お父さまのご威光に守られて、この世に怖いものがなかったから、無邪気なままでいられたのよ。でも、今度からは、少しはものを考えるようになるでしょう。決して、頭の悪い人ではないのだもの。自覚さえできれば、国家の柱石として立てるはず……)

 そうなったら、この悲嘆こそ、院の残して下さった貴重な置き土産、最後の教育ということになるだろう。

 夜が明けると、わたくしは声音を厳しくして言った。

「さ、そろそろしゃっきりなさって。いつまでもそんなことでは、東宮さまの後見は務まりませんよ」

 ぐずぐずしているのを急かして顔を洗わせたり、食事を摂らせたり、濃い鈍色にびいろの喪服で参内の支度をさせたりした。

 お兄さまは左大臣さまを手助けして公務を行う立場だから、あれこれの儀式やご法事の手配、動揺する貴族たちの取りまとめ、院の御所に残された女性たちの世話、主上さまや東宮さまへのご挨拶など、お役目が色々あるはず。

「しっかり、お務めを果たしていらっしゃいませ」

 そうしてお兄さまを送り出した後は、わたくしもすることがある。古参女房たちに前例を教わりながら、あちこちに必要な使者を走らせたり、お布施ふせの用意をしたり、他家からの挨拶や問い合わせに答えたり、この二条院で行う個人的な法要の手配を進めたり。わたくしの装束はもちろん、使用人たちの衣服も、屋内の調度類も全て、服喪用のものに取り替えなくてはならない。

 慣れないことで大変だけれど、これが妻の務めと思って雑事に励んでいたら、少納言がにんまりして言う。

「頼もしくなられましたわ、紫の上さまは」

 こちらもつい、口の端がゆるんでしまう。

「そりゃあ、わたくしも、いつまでも子供ではいられないわ」

 それが、この世の決まり。人は順次、前に押し出されて、大人の責任を果たすようになっていく。

 ところが、誰もが喪に服すこの世の中で、お一方だけ、高笑いなさった方があるという。

 他でもない、弘徽殿こきでん大后おおきさき

「これでようやく、わたくしの春だわ」

 舞うような勢いで、晴れ晴れとおっしゃったとか。

 あくまでも噂だから、真偽のほどはわからないけれど、そういう噂が流れても不思議ではないほど、平然としていらっしゃるのは確からしい。

 長いこと別居生活とはいえ、仮にも、ご自分の夫だった方なのに。もしかして、誰も見ていないところでは、こっそりお泣きになったのかしら。ご夫婦だったからこそ、人にはわからない愛憎があるのかもしれない、と想像した。人前で泣かないことが、弘徽殿さまの意地なのかも。

 わたくしだって、一時は本気でお兄さまを恨み、いっそ刺し殺したいと思ったほどだものね。

 邸内の者たちが寝静まった真夜中に、お兄さまの平和な寝顔を見下ろしながら、隠しておいた短刀を握りしめていたことが幾度もあるなんて、お兄さまは夢にも知らないでしょう。

(お兄さまを殺して、わたくしも死ぬ)

 あの頃のわたくしは、それしか道がないように思いつめていた。でも、それは、今になって思えば、

(お兄さまに捨てられたくない)

 という依存心の裏返し。飽きられて捨てられる日が来るのなら、その前に、全てを終わらせてしまう方がましだったから。

 今ではもう、密かに蔵っておいた、その短刀も見当たらない。誰かに見付かって怪しまれ、処分されてしまったのだろう。それは、もういい。もう必要ない。少しずつ落ち着いてきたお兄さまが、

「紫の上、あなたがいてくれてよかった。わたし一人では、とても耐えられなかったよ」

 なんて、照れたように微笑みかけてくるのだもの。

「わたくしもよ。お兄さまがいて下さるから、この世に生きていられるのよ」

 と言ってしまったのは、嘘ではない。

 女の心に鈍感でも、幼稚な甘えたがりでも、この人は善良だった。一番いい部分で、わたくしを愛し、守り育ててくれた。だから、これからは、わたくしがこの人を守る。わたくしはもう、大人になってしまったのだもの。

 ***

 さまざまな法事が済み、院の御所におられた女の方たちもそれぞれの里へ散っていき、世の中がそれなりに落ち着いてきた頃、わたくしは、お兄さまの様子がおかしいのに気が付いた。

 めそめそ、ぐずぐずは終わったけれど、何かかれたような顔で、じっと壁を見つめていたりする。急に立ち上がっては、どこかへ出ていこうとして、またくるりと戻ってくる。文を書きかけては、破り捨てる。あまつさえ、それを女房たちがつなぎ合わせて見たりしないように、火桶ひおけで焼き捨てる。

 何かしら、これは。

 いったい、何を隠しているの。

 用心して眺めていたら、ある晩、こっそりとわたくしの横から起き上がった。障子や几帳の向こうの女房たちを起こさないよう、ごそごそと古い狩衣を着る。わたくしの隠しておいた衣裳はもうないのに、お兄さまのお忍び用の衣裳は、ちゃんと用意されているのだ。

       
 それから、くたびれた烏帽子えぼしをかぶる。飾り気のない太刀を下げる。篝火を避けてうまやへ行き、自分で鞍を置いて馬を引き出す。供も連れずに、一人で出ていくつもりなのだ。

 まさか。
 
 これまで、どんな忍び歩きでも、乳兄弟の惟光だけは連れていったものだわ。

 静かに先回りしていたわたくしは、篝火の明かりの届く場所で、お兄さまの前に踏み出した。急いで出てきたので、ひとえの上に羽織ったうちきの裾をからげただけ。草履をつっかけた裸足はだしの指先は、氷のように冷え込んでいく。晴れた夜空には、降るような星。

「どこへいらっしゃるの。お供もなしでは、物騒ですわ」

 馬の手綱を曳いていたお兄さまは、ひどく驚いたようだった。それでもしぶとく、

「目ざといなあ、あなたは」

 と笑いに紛らせようとする。吐く息は夜目にも白く、手足の先まで、ぴんと緊張が張りつめていた。明らかに、普通の浮かれ歩きではない。

「どこへ行くのか、正直におっしゃらないと、悲鳴をあげますよ」

 ここで騒げば、詰め所にいる舎人とねり随身ずいじんたちが、何事かと集まってくるだろう。すると、お兄さまは馬の手綱をとったまま、困り果てる様子。どう言い訳したらこの場を逃れられるのか、あれこれ考えているらしい。

「わたくしは、あなたの妻ですわ。何でも相談して下さって、よいのですよ」

 と偉そうに言うと、苦笑した。例の、女たちをたぶらかす笑みで。

「そんなことを言ってもらえるようになったんだ。よかった。一時は、このままずっと口を利いてもらえなかったら、どうしようと思っていたからね」

 ふん。

 その笑みが通用するのは、お兄さまの舞台裏を知らない女だけ。

「わたくしに失礼な態度をとったら、いつでもまた、絶交します。さ、どこへ行くつもりか、おっしゃい」

 それでもまだ、お兄さまは白状しない。

「何でもないんだ。ただ、散歩がしたくなっただけなんだよ」

 だなんて、この息が白くなる夜中に、誰が信用しますか。

 季節はそろそろ春とはいえ、夜中や明け方の冷え込みはまだ厳しい。こうして立っていると、足先や襟元、袖口から、どんどん肌の熱が奪われていくのがわかる。お兄さまも最近は、めっきり夜の外出が減っていたのに、暖かい寝床からこっそり抜け出して、あえて出ていこうというのは、よほどのこと。

 どこなのかしら。このわたくしにも言えない、秘密の行き先なんて。夕顔という昔の恋人のことも、朝顔の宮さまへの憧れも、逃げ切られた空蝉うつせみのことも、常陸ひたちの宮の風変わりな姫君のことも、右大臣家の六の君、朧月夜おぼろづきよの姫との仲も、みんな打ち明けてくれたというのに。

 その時、稲光いなびかりが走ったかのように、ある記憶がよみがえった。あれはまだ、わたくしたちが夫婦になる前のこと。

 同じ御帳台で仲良く眠っていたある夜中、悪い夢を見たらしく、お兄さまが何やらうなされていたので、わたくしは目が覚めてしまった。お兄さまの苦しみようを放っておけず、わたくしは、肩を揺り動かして起こしたのだった。

『お兄さま、どうなさったの、大丈夫?』

 するとお兄さまは、わずかな明かりの下でわたくしを見て、

『藤壺さま』

 と言い、こちらの手を握りしめ、

『よかった。夢だった。いて下さったんだ』

 と安堵したようで、すぐまた寝入ってしまった。寝ぼけているんだわ、と思って、わたくしも気にせず、そのまま忘れてしまったけれど。

 藤壺さまは、わたくしの父方の叔母さまだから、わたくしたちは似ているのかもしれない。でも、夜中に御帳台の中で藤壺さまを見て、安堵する?

 何かおかしいわ、それ。

 今になってみると、他のことも思い合わされる。藤壺さまのお生みになった東宮さまが、お兄さまの小さい頃にそっくりだという噂話。異母とはいえ兄弟なのだから、似ていても不思議はなく、みなが楽しい話題として語っていたことだけれど。女房たちの口からその話が出ると、お兄さまも愛想笑いはするものの、なぜか心地悪いらしく、すぐに話題をそらせてしまう。

 まさか。

 でも。

 お兄さまは高嶺の花が好き。そして、お父さまのお妃さまといったら、これ以上はないという高嶺の花ではないの。

 ぞっとした。

 まさか、いくら何でも、そんな危険な横恋慕をするなんて。

 いいえ、ことによったら相思相愛なのかもしれないけれど、どちらにしても、あってはならないことよ。もしも、誰かにまずい場面を見られて、噂にでもなったりしたら、どうするの。それらしい文一つでも落としたら、即座に破滅ではないの。

 ああ、でも、この人は、その無謀をしてきたんだわ。藤壺さまと、許されない逢瀬を繰り返してきたのに違いない。宮中におられる幼い東宮さまは、もしかしたら、お兄さまの息子かもしれないのだ。

 怒りと絶望で、目の前が暗くなった。

 何ということをしてくれたの。

 皇統こうとうを乱すことは、国のいしずえをぐらつかせること。

 わたくしにもわかる罪の重さが、この人にはわからないの。

 いいえ、少しはわかっているから、誰にも内緒で行こうとしているのね。あるいは、

(どうせ父上の血を引く孫には違いないんだから、皇統の乱れというほどでもないさ)

 とでも、ふてぶてしく考えているのかしら。確かに、他の男が藤壺さまに通うよりは、はるかにましかもしれないけれど。

 今上きんじょうさまのお母さま、弘徽殿の大后さまは、お兄さまを目の敵にしておられるという。その昔、お兄さまのお母さまに、桐壺帝の寵愛を奪われた恨みとか。それが今や、父君の右大臣さますら従えて、怖いものなしの権勢を振るっていらっしゃる。何か証拠でも掴まれたら、どんなことになるか。

 いえ、証拠など必要ない。

 疑いさえ生じれば、あの方は行動する。

 偽の証人くらい、すぐにでも仕立てられる。

 帝より右大臣より、あの方の怨念が怖い。

 愛がこじれた時、それが死を引き寄せる憎しみに転じることを、わたくしは自分の身で知っている。

「わかりました。そういうことなら、なお、行ってはなりません。もしも露見したら、お兄さまだけでなく、あちらのお若い方・・・・・・・・まで、将来がなくなります」

 わたくしが厳しく言うと、お兄さまははっとして身を強ばらせ、目を泳がせた。嘘の下手な人。動揺がありありだわ。

 こういうお馬鹿さんだから、わたくしが守ってやるしかないのよ。いくら呆れはて、腹が立ったとしても。

「何かあっても、かばって下さる院は、もういらっしゃらないのですよ。行動は慎重にしなければ、いつ何時、弘徽殿さまから、どのような言いがかりをつけられるか。いいえ、言いがかりではなく、正当な非難だったら、逃げようがないのですよ」

 お兄さまはますます、視線をさまよわせている。これで決まりだわ。本当に、藤壺さまの所へ行くつもりだったのだ。お住まいの三条の宮は、どれほど厳重に警備されているかわからないのに。曲者と間違えられて、矢でも射掛けられたらどうするつもり。

 いいえ、間違いなどではなく、れっきとした曲者だわ。いくら未亡人になられても、父上さまのお妃だった事実は変えられないのだから。

「ねえ、姫……いや、紫の上。この際だから、あなたには話すけれど……」

 言い訳がましい態度で言われて、はっとした。

 だからなのね。わたくしのことを、紫のゆかりの姫、若紫と呼んでいたのは。

 そうだったの。

 わたくしは、叔母さまの形代かたしろなんだわ。

 叔母さまを手に入れられないから、代わりに、姪のわたくしを引き取ったわけね。そして、藤のゆかりの娘だから、紫と。

 力が抜けて、冷たい地面にめり込みそうだった。それでは、わたくしはずっと、お兄さまに片思いをしていたのだ。愛されていると思っていたのは、ただの錯覚。

 お兄さまはわたくしの向こうに、藤壺さまを見ていたのだ。早逝そうせいなさったお母さまにそっくりだという、理想の女性を。そして、わたくしをうまく育てて、その理想に近づけるつもりだったのだわ。

 何ということ。

 あまりにも惨めで、馬鹿らしくて、もはや笑ってしまうしかない。

 お生憎ね。わたくしは、理想の姫なんかではないもの。木に登るのも、馬に乗るのも、市で買い食いするのも、未だに大好きなのだから。

 お兄さまの夢見るような、高雅な貴婦人になんか、永遠になれるわけがない。まして、会ったこともない方の人真似なんて。

「これには、ずっと昔からの事情があるんだ。わたしは子供の頃、宮中で藤壺さまに会った。亡くなった母上にそっくりだと聞かされて、すぐさま、心を奪われてしまったよ。まさに、この世に降りてこられた天女のような方……」

 気がついたら、お兄さまは馬の手綱を持ったまま、庭の暗闇の中で、ぼそぼそと何かをしゃべっている。声は低めているけれど、熱に浮かされたように切々と。

「あの方はずっと、わたしの母であり、姉だった。元服げんぷくする前までは、親しくお部屋に出入りしていたものだ。それが、元服した途端、もう御簾みす越しにしかお目にかかれないんだ。どんなに寂しく、辛かったか」

 そして、少年のお兄さまは、左大臣家の姫と結婚させられた。葵の上さまは、それでもお兄さまを愛していらしたのに。お兄さまときたら、藤壺さまに心を寄せたままで、葵の上さまのことは、ずっとお義理の妻にしておいたのだわ。

 今ならわかる。葵の上さまの惨めさが。心がここにない夫を、どうして温かく迎えらるだろう。ご自分の誇りを守るために、悲しみも悔しさも、冷たい態度の陰に押し隠すしかなかったのだわ。

「あの方にじかにお目にかかりたくて、気が狂いそうだった。だから、おう命婦みょうぶに頼み込んで、里下がりの機会を狙ったんだ。あの方は、初めは拒絶なさったけれど、最後には、とうとう認めて下さったよ。わたしを愛していると」

 この、馬鹿。

 鈍感の大間抜け。

 このわたくしに、それを言うの。

 気が狂いそうなのは、こちらの方よ。

「それでも、父上がおいでの時は、後ろめたくて苦しかった。父上は最後まで、何もご存じないままだったから。でも、今ならもう、裏切りではないだろう!?」

 何を言っているの。裏切りになるのは、院に対してだけではないのよ。曲がりなりにも妻であるわたくしに向かって、他の女をどれだけ愛しているか訴える、それが裏切りでなくて何なの。

 この、底抜けの鈍感男。わたくしがどう感じるか、想像しようともしないんだわ。お馬鹿だとはわかっていたけれど、まさか、ここまでとは思わなかったわよ。

 でも、これで納得できた。だからだわ。六条の御息所みやすどころが、娘である斎宮さまに付いて、伊勢へ下向なさったのは。この幼稚さ、無神経さに愛想を尽かしたのだわ。これではもう、一生待っても、もののわかった大人の男になる望みはないと。

 でも、お兄さまはまだ語っている。

「宮中はいま、弘徽殿さまの天下だからね。あの方はきっと、心細くて泣いていらっしゃると思うんだ。お側に行って、お慰めしなくては」

 怒りのあまり、目眩めまいがした。それなら昼間、東宮さまの後見役として、堂々と正式に訪問すればいいのよ。何も夜中に、こそこそ忍び込むことはないわ。

 わかっている。本当に抱きたいのは、わたくしではなくて、藤壺さまなのね。わたくしは、ただの代用品だから。

 もう、もう、勝手にすればいい。途中で強盗にでも遭って、斬り殺されてしまえばいいんだわ。何が、光り輝く君よ。女の心を知らない、知ろうとしない、最低の幼稚男。身勝手男。

「待っていておくれ。夜明けには戻るから」

 わたくしを説得したと思うのか、お兄さまは馬にまたがり、あっという間に走り去ってしまった。門番たちはどう言いくるめられているのか、静かに門を開いて協力するのだ。

 わたくしは震えながら暗い部屋に戻り、それぞれの局で寝ている女房たちに気付かれないよう、そっと夜具に潜り込んだ。冷えきった躰が暖まるのを待ちながら、自分を堅く抱きしめる。

 ようやく、妻として暮らす覚悟が定まってきたところだったのに。一生、お兄さまに尽くすつもりでいたのに。わたくしがお兄さまに寄り添っている間、お兄さまは、

(この子が、あの方だったらいいのに)

 と思っていたんだわ。

 明日から、どうやって生きていけばいいのか、わからない。

 自分が人間ではなく、ただの人形ひとがただったなんて。

 それでも、わたくしには、他に生きる場所がない。これだけの秘密を打ち明けられて、それを守り通せる者は、他にはいない。何かの時は、わたくしがお兄さまをかばうしかないのだ。精一杯の知恵を働かせて。

 ふと、気がついた。わたくしは、もしかしたら、亡くなった桐壺の更衣の思いを引き継いでいるのかもしれない。幼い息子を残してった方の、無念の思い。

 実のお母さまの代わりに、このわたくしが、お兄さまを守る巡り合わせになっていたのではないかしら。

 そう思えば、どうということはないはず。お兄さまは、わたくしの子供のようなものだもの。他の女性に夢中になったとしても、帰る場所は、わたくしの元なのだから。

 だいたい、お兄さまは自惚れが過ぎるのよ。世間の噂を聞く限り、藤壺さまは聡明な方。いざとなったら、秘密の恋人より、ご自分のお腹を痛めた息子を選ぶはず。藤壺さまに捨てられて、わあわあ泣くといいのよ。慰めてはあげるけれど、わたくし、内心で笑ってやるんだから。

 その想像で自分を慰めたけれど、それでも、苦い涙は止められない。一人でいるのが、たまらなく寒い。肩も背中も、ぞくぞくする。お兄さまが横にいてくれたら、冷たい足を足の間に差し込んで、温めてもらえるのに。

 声を殺して、しばらく泣いているうちに、人生のからくりがわかったような気がした。

 不意にどこかへ突き落とされて、ここがどん底だと思って嘆いていると、更にまた、そこより深い場所へ突き落とされる。人間は、きっと死ぬまで、こういうことを繰り返すのだわ。

 それでは、次はいったい、どんな絶望に突き落とされるのかしら。これ以上悲しいことがあるなんて、今のわたくしには、想像もつかないけれど。

   「紫の姫の物語」11に続く

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