『ルックバック』に込められた想い。そして創作する事への敬意。
今日ルックバックを観てきました。
観終わった直後からふつふつと感動が増して行き、興奮冷めやらぬでパソコンに向かっています。
久しぶりに超個人的解釈レビューをかいていきたいとおもいます。
かなりネタバレを含みますのでまだ観ていない方はお気をつけて。
私は、なんの前情報もなしに観に行きました。
原作は未読で、その原作についてどのような議論がなされていたのかももちろん知らずに全く白紙の状態で観に行きました。
そして、観終わった後、周りの評価や熱量と自分の感覚の違いに大きく戸惑いました。
なぜならものすごく大きな違和感を抱いたまま、感動に昇華されることなく映画が終わってしまったからです。
もちろん、二人が出会い奮闘し、漫画を作ることにのめり込む姿や、そのすれ違いなど、仲間と共に夢を追いかけていた頃の自分と重ね目がうるむ瞬間もあったのですが、、、
大きな違和感として、
・京本の死を「私のせい」だと責めていた藤野が、また漫画を書き始める動機がいまいちわからない。
・京本がこの形で死ぬという展開が本当に必要だったのか。「死」という物の描き方は本当にこれでいいのか。
・パラレルワールド(観終わった直後はそう解釈していた)から届いた京本の漫画の意味。
(↑過去の京本が書いていたとしたら辻褄がどう考えても合わない。)
などなど、直後の私には理解できないことが多く、観終わった後ももやもやしていました。
「こいつ、馬鹿だなあ」と思った方。すみません。ちょっと待ってください。しっかりその後その答えを自分なりにですが見つけました。
もう少しお付き合いください。
そうなんです。何も分かってなかったんです。私。
でも何か、大きなメッセージがこの作品に託されているような気がして、この作品に関してのいろいろな記事を読みました。
そこでやっと知りました。
この原作が、京アニ放火事件の2年と1日後に公開されていたこと。犯人の動機や状況がその事件と類似していることから様々な議論がなされていたことを。
まずこの背景を知った上での私の先ほど述べた違和感に対しての解釈ですが、いくつか考えましたが1番しっくり来たのはあの「背中を見て」という4コマ漫画は、空白だったのでは無いか?というものです。
京本というかけがえの無い親友を失った藤野は相当精神的ダメージを負った状態であの部屋の前にきて、自分の辿った過去を探すかのように自分の漫画「シャークヘッド」を勢いよく遡り、その中で自分が過去に書いた4コマ漫画を偶然目にします。
「出てくるな!」「出てこい!」から始まり、京本は実は死んでいたというギャグ漫画を見て、漫画のように京本に出てくる動機を持たせた結果死を招いてしまったと錯覚し(またはそうであると気づいてしまい)自分のせいで京本は死んだと思い込んでしまいます。
その後、憔悴した彼女の前にあの「背中を見て」というタイトルの漫画がひらりと舞いこんできますが、あれは空白で、あのパラレルワールドのような世界は彼女が妄想で咄嗟に作り上げた世界では無いかという解釈です。
それは、親友を失ったという極限状態であっても創作することをやめられない、漫画家の創作に対する狂気のようなものを感じられます。
そもそもこの妄想の世界の流れにもかなり無理が生じます。
二人が出会っていない世界線であっても、京本が現実と同じ流れで美大を目指していたり、斧を持っている不審者を美大に入るまでずっとつけてきてわざわざ京本をキックで助けたり、(ここの倒し方にシャークヘッドを連想させますね。)脈絡なく、また漫画を描き始めた藤野と京本の会話だったり…。
そこに、なんとしてでも絵を描くことを続けている京本に生きていてほしい、でも自分も漫画を描くことは諦めていて欲しくない、そしてまた二人で漫画を作りたいという藤野の切実な願いも読み取れますね。
そして、「背中を見て」というメッセージですが、藤野の中に自分があの田んぼ道をスキップして帰った日の記憶が無意識でも深く刻まれていて、悲しみに暮れる自分に対するメッセージとして京本との物語を作り出し、京本を通して自分に送った。そしてまた原点に立ち返り、自分と京本の人生軌跡を辿るようにして「シャークヘッド」を読んでいた。
そのページをゆっくり辿るように2人の眩しい思い出達が流れて行く。
「シャークヘッド」は、藤野と京本の人生のメタファーですね。
あの漫画は現実逃避かのように悲惨な事件をギャグ化することで藤野の切実な願いを具現化しており、彼女の空虚さや悲しみが痛いほどに読者に伝わってくる仕掛けになっています。
それだけではなく、京本自身も藤野の背中をずっと追って絵を描くことに情熱を注いできました。
「背中を見て」という言葉は、京本が挫けそうになったとき、自分のちゃんちゃんこの背中を、そして藤野の「背中を見て」という自分へのメッセージとして持ち続けていたのかもしれませんね。
その二つが相まってか「背中を見て」という言葉にどうしようもなく心が動かされてしまいます。
堂々と書いた「藤野歩」という自分の名前を見た後、明るい表情をしたり、また漫画を描くために駆けて行ったりする描写がないことから、漫画を描き続けることの痛みや苦しみまでも伝わってきます。まるでそれが贖罪でもあるかのように。
これは大切な人を失ったということのあまりの傷の大きさと、それでも創作を続けていくクリエイターたちの、並々ならぬ意志の強さやそれに対する敬意が深く感じられます。
これは、二人の物語ではなく、藤野歩の絶望と再生の物語なのです。
この物語は、京アニ放火事件の追悼の意が深く込められていることを感じます。
作者の藤本さんが「藤野」と「京本」という人物に自分を重ね描いている点から、どうしてもその関連性は深くあると思わざるを得ません。
理不尽に命を奪われてしまったクリエイターたちへの敬意、その事件への怒り、そして残されたものたちが創作を続けることの意義。
それを直接的にメッセージとして描くのではなく、絵を描く者たちへの讃歌のような作品に仕上がっていることに心底感動しました。
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