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【連載】かくれ念仏/No.6~谷山の食い逃げ~

谷山の食い逃げ

2017年、縁あって、鹿屋市花岡の或る古老に郷土史にまつわるお話を伺った。

氏の出自は、大川内という御家であり、古くは熊本の細川家の家臣であった。島津貴久が人吉を攻めた折、細川は、豪傑で知られる大川内一門約1000人を人吉に遣わした。これに対し貴久は、大川内の島津方への引き抜きを企む。これは大川内にしてみれば、一家の命運をかけた選択を迫られたわけで、喧喧囂囂あったが、ほとんどが島津に主替えし、今の菱刈などに残る大川内姓や、鹿児島市山田町にある大川内という名の集落は、この時の謂れだと伝わる。

さて、鹿児島の故事成語に「谷山犬の食い逃げ」とか、「谷山の食い逃げ」というものがある。
この言葉の由来は諸説あるが、大川内氏のことを指しているとも言われている。前記の鹿児島市山田町大川内。ここの大川内氏の人たちは、時々城下に呼ばれて馳走になり、酔っ払って宇宿や田上を通って大川内に帰った。この様を「谷山の食い逃げ」と言ったらしい。

その大川内には、300年近く集落を見守ってきた観音像がある。大川内氏はもともと仏教に篤く、阿弥陀堂も建立したという。そして氏曰く、その観音像のルーツは、一向宗の信仰であるという。

確かに人吉は1555年の『相良氏法度』によって一向宗が禁じられる一方、「ほとけの里」とも云われる念仏土徳の土地である。

氏によると、真宗の本尊や聖籍を断腸の思いで土中に埋めて隠し、観音像を建立したという。

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