仏教でひもとくウィズコロナ~星野源の楽曲を手がかりとして~ その⑴
これは、2021年5月25.26日、 真宗大谷派九州教区鹿児島組北薩ブロックの「坊守・女性門徒の会学習会」にて配付した、私がつくったレジュメです。
何日かしたら非公開か有料記事にしようと思います。
その⑴から⑷まで掲載するつもりです。
Ⅰ-① 星野源の「うちで踊ろう」
2020年4月初頭、日本ではCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)の世界的流行の影響により政府から外出自粛の要請が出され、日本全体に未曽有の閉塞感があった。
そのような状況下の4月3日、音楽家の星野源が自身のInstagramアカウントで約1分間の動画を公開した。その動画の内容は、自身が作詞作曲した「うちで踊ろう」という楽曲を弾き語りしたもので、たちまち高評価を得てネット上に拡散した。
また星野源は、楽曲の著作権を超えたアレンジや二次制作を推奨し、多数のユーザーによるコラボレーションが話題となった。
後日の経過として、4月7日には「緊急事態宣言」の発令、12日には当時の内閣総理大臣の安倍晋三も自身のInstagramやTwitterに、自宅でくつろぐ様子を「うちで踊ろう」の音楽と共に投稿し、賛否両論をよんだ。
15日に音源の無料配信、5月29日には伴奏をつけて再収録した「Potluck Mix」バージョンが公開され、2020年12月31日放送の『第71回NHK紅白歌合戦』では「うちで踊ろう(大晦日)」として2番の歌詞を加えたバージョンが演奏され、翌年1月8日にNHKYouTubeチャンネルで、紅白での演奏フルバージョンが公開された。
Ⅰ-②「うちで踊ろう(大晦日)」の歌詞
この曲のタイトルと歌詞の「うちで踊ろう」というフレーズは、公式の英訳版で「Dancing On The Inside」となっていることからも分かるように、医療従事者等、仕事のためにどうしても在宅できない人であっても、心の中ででも踊れるように、「おうちで踊ろう」や「いえで踊ろう」ではなく「うちで踊ろう」にしているという星野の思いがある。
Ⅰ-③ 私の如是我聞「うちで踊ろう」
※A「常に嘲りあうよな 僕ら それが人でも うんざりださよなら 変わろう一緒に」という歌詞について……
→私はこの「常に嘲りあうよな 僕ら」という歌詞に3つの感じることがあった。
❶ひとつは字面通りに、人が他者を馬鹿にして悪く言ったりあざ笑ったりする様子をイメージした。それは人が自分の口ながらに放った言葉で他者を苛ませるという、自明で、よくあることを改めて問題提起しているように思える。
我々は言葉を用いる時、いちいち注意を払って言葉を操っているというわけではなく、ぱっと口を衝くような言葉もある。
しかし仏教では一個人の存在を「身・口・意」という3つの構成要素から成っていると明かし、人格における放言(どのような言葉を扱うか)のもつ構成の度合いを非常に重く見ている。
しかも口業は、物質的な肉体(身)とその活動(身業)や、強烈な心(意)の作用(意業)とは違い、目視できず、没日常的で、かえって制御することがむずかしいため、十悪のうちでも、妄語・綺語・悪口・両舌と4つの枠が口業に充てられており、『無量寿経』はじめ諸経で、言葉には「善語(いい言葉)」と「麤語(粗い言葉)」があると説いている。そして、得てして人間の口は口業悪や麤語ばかり吐いている。
また、「嘲りあう」は、陰日向に相互に傷つけ合う渦の中に自身も参画しているという、「自覚」の表現とも思えるが、これには『過去現在因果経』などに見られる「衆生可愍 互相呑食(かなしきかな衆生、互いに相呑食す)」というシッダールタ青年の苦悩にリンクして思える。
つまり星野源の歌詞中のこの指摘はそのまま、仏教萌芽という人類史上の事象と、まったく同質の課題意識から生じたものに思える。
⑴おわり。⑵につづく
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