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【The Evangelist of Contemporary Art】さいたま国際芸術祭2020を観て―行政アートの顛末(前半)

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5 平川恒太《太陽の民 顔ハメパネル》


 さいたま国際芸術祭(1)を一言で語れば、それが「さいたま」を意識すればするほど、ローカル色が薄れていくということである。行政区分のローカル(さいたま市)は、確かに存在する。だが、そのローカルとしての特徴(ローカリティ)はほとんどないように見える。それは、「さいたま」が東京のベッドタウンであり中央に吸収されているからである。

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1 さいたま国際芸術祭


 さいたま国際芸術祭は展覧会なので作品がある。だが、それが取り戻したいと望んでいるだろうローカルは遠ざかるばかりだ。さいたま市がどう言い訳しようと、中央に依存し独自の文化を耕してこなかったツケが回ってきた。前回2016年に開催されたさいたまトリエンナーレ(その後改称された)は都市の殺風景な場末感を漂わせていたが、今回の芸術祭は、後述するように日本の中央集権の政治システムを、地方行政において忠実に再現していた。

 それを説明する前に、話題を変えてヨコハマトリエンナーレ2020(前レビュー参照)と比較すれば、違いは歴然としている。ヨコトリの表現は軽かった。言うまでなく、その軽さはポストモダン由来で、非政治性ともどもアートマーケットの無言の要請であり、それに配慮しないことはグローバルから切り離されることを意味する。グローバルなアートのコンテクストから外されるのである。それが、日本の現代アート全般をめぐる苦境になっているのだが、それ自体は悪いことではない。

(文・写真:美術評論家 市原研太郎)

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