なぜ英語での生活を続けるのか?
先日、NVC(非暴力コミュニケーション)のオンライン練習会に参加した。
日本語のクラスで参加できるものが見つけられなかったので、英語で。
参加している途中に気づいたのが、「こんな繊細なコミュニケーションの学び&実践を英語でするって、超ハードル高い!」ということ。
一方的に説明を聞いたり、私の気持ちを伝える分にはなんとか大丈夫だけれど、相手が自身のハートの痛みの部分から話してくれる、繊細な話を英語で聴き取ることは、私にはすごくハードルが高い。
「聞き間違えて、相手を傷つけてしまったらどうしよう」
「知らない単語が出てきて、『すいません、それどういう意味ですか?』と聞き返し、相手に『この人には分かってもらえない』という悲しい気持ちにさせたくない」
「『ゲ、英語にハンディがあるこの人と組むのか。外れたな。やだな』と思われたら悲しい」
そういう思い瞬時に湧いてきた。
カミーノ友達たちとは散々深い話をしてきたけれど、相手が英語ネイティブと思うとどうしても構えてしまう。
あとはカミーノ友達と違って初対面であり、さらに、NVCという深いコミュニケーションを練習する場で、初対面の人の話を聴くには、自分の英語力は不十分だと感じた。
しかも私はNVCをこれから学ぼう!という立場で、NVCのことをまだよく知らない。
だから先日は、練習にはオブザーバーとして、見ているだけの参加をさせてもらった。
(見ているだけでも、深いつながりを感じ、癒しを感じるほどの、とても良い時間だった)
手に汗握りつつ、この時間を終えて感じたことは、
「なぜ私は、わざわざ英語で取り組んでいるんだろう?」 ということ。(NVCに限らず、色んなことを)
日本語だったらもっとよく理解できるし、色んなことを、もっと簡単に、楽に、ストレスなく、早くすることができる。
英語はたくさん勉強してきた。IELTSのアカデミックモジュールでOA7.0のスコアも取った。
けれど、それでもやっぱり、私の英語力は、まだ日本語のようにはいかない。
もし、人生で「何をするか」が大事なのだとしたら、限られた人生の時間を有効に使うためには、英語でするより、日本語でやった方が、ずっとたくさんのことを、ずっと高いクオリティでできる。しかもストレスなく。
それなのに。 どうして私は、大きな負荷がかかるのに、わざわざ英語で生活し、英語で勉強や仕事や、色んなことをやろうとしているんだろう?
これって、私が本当にやりたいこと、本当に大切なことを考えた時、実は無駄なんじゃないだろうか?
エッセンシャル思考で考えたら、本当は、日本語だけの世界で生きた方が、いいんじゃないだろうか?
そんな思いが湧いてきた。
だけど、じゃあ、すべて日本語の世界に戻ろうか?と考えると、それは快適なのだけど、少しだけ、私の内側がションボリする感覚がある。
「じゃあ、やっぱりもう少し、英語の世界で挑戦したい?頑張りたい?」
そう訊いてみると、私の内側は、少し不安げだけれど、「・・・ウン」と頷く。
NVCには「深いニーズ」という考え方がある。
私は自分に、自分の中のどんなニーズがそうさせるんだろう?と問うてみた。
出てきたのは「深い繋がり」。
私は、自分自身(自分自神)と深く繋がりたい。
と同時に、人とも、深いところで繋がりたい。
そういう、とても強いニーズがある。
その時に、英語ができると、より色んな人と深く繋がることができる。
より広く世界と繋がることができる。
もちろん、言葉は全てではなく、その奥にある想いやエネルギーの方が本質。
だけど、やっぱり、言葉を通してコミュニケーションを取れるからこそ、仲良くなれる人たち、深く繋がれること、気付けることもあると、自分の経験から感じる。
例えば私のカミーノ友達と、深く仲良くなれたのは、私が英語をそれなりに話せるからだと思う。
もしも私の英語力がもっと低かったら、その場では身振り手振り交えたカタコト英語の交流で楽しい時間を過ごせると思うけれど、しかしその後も人生について語り合う、深い仲、親友、という関係にまでは発展しなかっただろう。
逆に日本人の親友たちを考えてみてもそう。 仮に私が日本語を十分に話せなかったら、私と親友たちとの関係はやっぱり、今とは少し違っていたと思う。
言語は道具。
だけど、それはたくさんの深い繋がりを育む可能性を秘めた、素晴らしい道具だと思うのです。
だからやっぱり、英語という便利な道具をもっと使いこなせるように、もう少し頑張ろう。
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