いま時代を刻む 平成最後の岸田戯曲賞(後編)

第63回を迎える岸田國士戯曲賞の予想対談。
前編はこちらから。
中編はこちらから。

進行・構成/落 雅季子
あらすじ執筆/河野桃子

6.坂元裕二『またここか』

東京サマーランドにほど近いガソリンスタンド。季節は夏。店長の若い男と、ろくに働かないバイトの女のもとへ、中年の男が一人の女を引き連れて訪ねて来る。中年の男は小説家、女の方は看護師らしい。小説家は、自分は店長の異母兄弟だ、と名乗る。そして、二人の父親が植物状態で入院中で、医療ミスの噂があるので一緒に病院を訴えようと持ち掛けてくる。兄を笑顔で受け入れる弟だが、やがて誰もが気付くのだ。弟が、自らの恐ろしい妄想に怯えながら生きていることに……。

落  台詞が圧倒的に、繊細かつ緻密でしたね。ト書きも無駄がないし、ミクロに読めば読むほどすごさが分かる。

河野 台詞のうまさはもう素敵ですよね。ずっとテレビドラマの第一線で一般視聴者に向けて書いてこられた方だなぁと思います。

落  登場人物が、候補作の中では最小の4人なんですね。その上、この緻密な構成なので、とても飲み込みやすい。誰かが役を兼ねるとか、そういうことをせずに4人に登場人物を絞って、場所を固定して時間軸の移動で物語を展開させることにしたのは、坂元さんの天性の勘でしょうね。台詞も坂元節に溢れています。

河野 気が利いて、キラキラした台詞がいっぱいある。

落  賢しらな感じに聞こえない。テレビの流し見と違って、人に集中を強いる演劇向けの配慮がなされている。

河野 簡単な台詞ですごく本質を伝えています。ただ、登場人物一人ひとりの背景がいろんな角度で描かれているので、演じるのは難しいかも。とくに弟の近杉役は狂気を孕んだ設定ということで、リアリティを持たせるのは大変かもしれませんね。この物語を受け入れられるかどうかは、近杉の「やってはいけないことを衝動的に実行してしまう」という行動が生理的に理解できるかどうかで変わるかもしれません。近杉の行動に「なんで?」と思う人は、気持ちがついていかないかも。ちなみに私は、近杉の気持ちはけっこうわかります。私も「だめだだめだ」と考えていると、気づいたら身体が絶対にやっちゃいけないことをやってて、自分でビックリすることがあるんですよね。本当に危ない(笑)難しい役とはいえ、こなれてない俳優がしゃべったとしても、台詞の美しさは伝わるでしょう。

落  誰でもある程度うまく喋れる……といえば、私にとって思い出すのは、鴻上尚史の『トランス』です。あれは、読むだけで誰もがうまく見える戯曲のひとつだと思ってて。

河野 過去の岸田戯曲賞受賞作を振り返っても、上演台本としてだけでなく、読み物としても完成度が高いものが多い印象です。戯曲そのものに力があると、上演はある程度面白いものになると思います。

落  そんな坂元さんでも、初の戯曲であるがゆえの瑕疵はあります。問題点の方に行くとね、あの……いきなりクロックスで他人の頭を殴るじゃないですか。私は、それを読んだ時に「演劇の自由は、いきなり人の頭をクロックスで殴っていい自由じゃないぞ」と思ったんです。わかる? それをやるのが演劇の突飛なリアリティと思ってるんだったら、それは今後やめてほしいなって。

河野 ああ……映像ならいいけど、と? まあ、ヨーロッパには、現実を実現するのが演劇だという理論で、ケンカシーンでは本気で殴る劇団があると聞いたことを思い出しました。カンパニー名は忘れましたが。でもたしかに、戯曲で指定しなくてもいい気もしますね。

落  繰り返しになりますが、台詞のひとつひとつはセンスなのかテクニックなのかわからないくらい美しい。どっちでも自在なんだと思う。読み進めていくにつれて引き込まれる。坂元さんって食べ物の使い方がうまいですよね。ホールケーキを落としちゃうシーンがあったでしょう。ケーキほど、床に落として悲しい食べ物ってないですよ。「ふえるわかめ」もいいし、チーズケーキでもビスケットでもなく「マドレーヌ」っていうチョイス!! 

河野 固有名詞の選び方はもう、本当に、魅力的。

落  すでに話題にしたとおり、他にも小説家が出て来る候補作はありましたが、本作の根森という男、情けなくて陳腐ではあるけれど台詞の脚力で超えていきましたね。ラストシーンが最高に綺麗!

河野 ラストはすごい。フィクションの力で、一気に現実と幻想をないまぜにしていく。観客に結末の解釈をゆだねているわけだけれど、解釈いかんによっては超絶望でもあるし、超希望でもあるし、どちらでもないかもしれない。

落  私は、弟はガソリン自殺したんだと思った。そして、ラストシーンはありえたはずの、最良の兄弟の出会い。

河野 その可能性も頭に浮かびました。同時にほかの解釈も思いついて、たとえば、ラストはありえたはずの妄想かもしれないし、小説の中のできごとなのかも。はたまた、ラストだけが現実なのかもしれない……。希望も絶望も、どちらの可能性もひっくるめて箱につめ、受け取った観客がさらに世界を広げていけるような作品は、観客に誠実に対峙しているなと感じます。

落  どんなことがあっても、受け止める側のことを信じて伝える姿勢ですよね。先回りしない。不安になっても信じる。そのための技巧を尽くす。

河野 私はこの作品に、観客に対しての働きかけを強く感じています。言葉を生業とする作家が、物語というフィクションを越えて現実を変えようとする意欲がある。経済活動において、マーケティングやサービスや広告の目的は、接した人になにかしらの行動をおこしてもらうこと。坂元さんの戯曲からは、お金を払って観に来てくれた人をより良い状態に動いてもらえるようにしようという意欲が感じられたんです。社会のなかに商品として存在できる演劇という意味の「商業演劇」。戯曲が作家のエゴじゃなく、前のめりに観客に関わって世の中を動かそうとしているような気がします。そういう意味では坂元さんはアーティストでありながら社会的だし大衆的だし商業的なので、「演劇界の芥川賞」と自明している岸田戯曲賞というよりは、なにかもっと別な戯曲賞が存在すればいいのになと思いました。

落  その可能性を知らしめるために、今年ノミネートされたんだと思います。

河野 しかし今回は演劇の戯曲は初執筆とのことで、演劇というより映像作品みたいだな、と思ってしまうところはいくつかありました。ただ恐ろしいところは、あと2〜3作書いたらものすごく素晴らしい戯曲が生まれるんじゃないかと、ほぼ確信に近い期待をしてしまうんです。

落  坂元さん自身も、次に書くならバージョンアップできると手応えを感じているでしょうね。戯曲の滑り出しはまだぎこちないところもありましたが、恐らく筆が乗ってからの第二幕以降、ぐんぐん作品の鮮やかさが迫ってきました。

河野 だって、クライマックスを過ぎたところでタイトル『またここか』の意味が突き刺さってくる。「ああ!『またここか』ですよねー!」と(笑)。しかもわざとらしくなく、さりげなく大きな衝撃を与えるんです。ちなみに2018年の素晴らしい新作戯曲で蓬莱竜太さんの『消えていくなら朝』という作品があって、それも「ああ、『消えていくなら朝』だよねー!」と最後にタイトルが細胞に染み渡っていく。そういう作品に出会えるなんて、もう、ありがとうございます……。

落  実感のあまり、こぶしが効いている(笑)。確かに、最後まで読むとこれ以上ないほどのタイトルであることが分かる作品でしたね。じゃあ、もうひとりのベテラン作家、古川日出男さんに行きましょう。

7.古川日出男『ローマ帝国の三島由紀夫』

イタリア・ローマの地底。そこでひっそりと暮らす日本人のユキコ(三島ユキコ)とサンボンギ。その地底に少しずついろんな日本人が集ってきて、彼らはいつの間にか疑似家族を演じていく……。ローマの歴史、キリスト教、三島由紀夫がはじめて自分の目で選んで自分の所有物にしたうえに演出した戯曲『サロメ』などが絡まり合う壮大な物語。

落  日本の演劇史に偉大なレーゼドラマ(※上演を目的とせず、読むために書かれた戯曲)が刻まれたと思いました。

河野 いかようにも受け止められるシーンがたくさんあって、演出次第だなあと思いつつ、この戯曲を掲載してくれた「新潮」に感謝です。とにかく面白かった!

落  ト書きが素晴らしい。「ユキコの言葉には相手の全否定がある」とか、「彼女は描写しただけだが男はそれを一種の催促と捉える」とか、精神的なト書きなの。心情を動かしていくものなのよ。行動を指定するト書きではない。未来の演出に委ねているとも言えるし、読者を100パーセント信じて託しに来てるよね。

河野 ト書きが美しいことは重要だと思います。ト書きが綺麗だと演じたくなる。

落  美しさといえば、水のメタファーが非常にたくさん出てきますね。川や湖など。川の流れる音が聞こえてきたり、手を差し出すと冷たい水の感触を感じられるような小説。それから「黙す」と書いて「もだす」と読むとか、活字の楽しみを存分に詰め込んでますね。

河野 読み物として美しい。前半はそんな導入で引き込みつつも、中盤に戯曲『サロメ』が登場をしたあたりから、どんどん風呂敷がひろがっていきました。読む人によってはカタルシス、人によってはカオスに放り込まれたのではないでしょうか(笑)『サロメ』の他に、キリスト教のモチーフも色濃くなっていくのが面白かったです。『サロメ』とキリスト教があいまって、田中千禾夫の戯曲『マリアの首』を思い出しました。

落  キリスト教の文脈の中で、家族や人のつながりの在り方について語るところが似ていますね。今作において私が注目したのは「よげん」の字。「予言」と「預言」の使い分けが、意図的になされているのは分かったのですが、その根拠が読み解けなかったんです。「予」の方だとオカルティックなニュアンスになりますが、預かる方だと神託という意味が出てきますよね。ヨカナーンのことだけを「預言者」と言ってるんだとしたら他の人のことを予定の「予」で書いてるのはなぜ? ほら、表記が違うでしょ?(見せる)101ページ。

河野 面白いね。目で楽しめる戯曲ですよね。オノの台詞が「預言」ではなく「予言」と書かれているのは、オノが神託を伝える「預言者」ではなく、独自解釈の妄言を吐く「予言者」ということを「ヨゲン」しているのかもしれません……と、目で見た文字で遊べるからこの戯曲は楽しい。

落  102ページのオノの台詞で「我唯一の存在になりその子は自らを神話化する」って言っているのが、日本の天皇の、権威の話に聞こえた。「予言はすれば成就する」っていうのは結構日本的な言霊の思想だなと思って。私の感覚では「預言」というなら、それは神様のみむねであらかじめ決まっていることなので。これはひとつ論点として提起したいんだけれど、日本人が「父なるもの」を扱う時に、キリストの近似値として天皇を持ってくることは非常に多いでしょう。でも、それは近似であって本質は全然違う。たとえばね、私の中での神様(キリスト)と天皇の違いは、神様は信じたら救ってくれるんですけど、天皇は信じても救ってくれないこと。無邪気に天皇とキリストを相似形として持ってくるのではなく、固有の問題意識として日本で展開できないと、文学としての働きかけは弱くなってしまいます。

河野 それについては、オノが天皇を想起させることをしゃべるのは無邪気に天皇とキリストを重ねているようにも見えるけれど、一方で、オノのエセっぽさを引き立てる作用があるとすれば戯曲として成り立ったりしない? 

落  成り立つ。でもね、このあと神学的、宗教的な問題から、どんどん「サロメ」の醸し出すエロスとタナトスに物語が流れていきますね。構造や権威の問題よりもエロスやタナトスの方が芸術にとってはハンディだし、美しく語れるから致し方ないのですが。

河野 ふむふむ……私は『サロメ』にはエロスを感じなかったかな……赤い唇の話など色彩としては綺麗でしたが。この『サロメ』は物語の大半を占める大きな要素ですが、ユキコとサロメが重なった先に、ユキコは本来のサロメの結末とは似て非なるものを自分の手で選んでいく。それまで歩みを止めていたユキコが、三島由紀夫の愛した『サロメ』を踏み越えて、自分の人生を自分でたぐり寄せる様子は圧巻でした。と同時に、その様すら『サロメ』の一幕のようでもあり、ユキコの意志がどこまで彼女自身だけの意志かは明確ではないわけです。幅の広い物語です。

落  最後に登場する首なしの死体はユキコでもあるし、三本木でもあったわけで、そうした連続したイメージで最後は壮大でしたね。最終ページはもはやト書きの文学ですよ。

河野 その壮大さは、読者のイメージを広げ続けますね。なんなら、すべて黄泉の国の死者たちの物語だったんじゃないかとすら思えます。

落  死んでるよね。みんな霊体かな。

河野 ただ、なぜ三島由紀夫という人物がタイトルに据えられたのかは、いろいろと可能性を思いつきすぎてこれという正解が見いだせていません。それでも重要だと思ったのは、ユキコは母親の再婚によって三島姓になる……つまり自分の意思ではなく「三島」という苗字が「由紀子」という名前の上に乗ったことで、歴史的作家という意味を負わされちゃった普通の女性。そんな人が、結局はすべての絆を断ち切って、自分の名前を引き受けていく。一人の女性の自立物語でもあり、さらには自決した三島由紀夫が現代を生き直すイメージも浮かびました。

落  最後にユキコが宣言する「27歳」という年齢は、戦後に三島由紀夫が欧米を旅して、ギリシャ、ローマも巡り、旅行記を出版した年齢なんですよね。「アポロの盃」(朝日新聞社・1952年)という本です。深読みが過ぎるかもしれませんが、その後三島は「卒都婆小町」などの有名戯曲を遺し、35歳でサロメを演出し、それはまた死後に再演された。だから、彼自身がギリシャやローマを巡って生まれ直したという事実を文学史的に再構築していると読みました。

河野 本当にいろんな解釈の余地があって、戯曲としては最高に面白いんだけど……ここにきてこれまで言ってきたことを覆すようだけど、これ演劇の戯曲としてはどうなんだろう? 上演はできるのだろうか……?

落  あのね、わかる(笑)。

河野 古川さんの戯曲発表に際してのコメントで「私は、活字でこの戯曲を読むことで、あらゆる読者が《脳内上演》できることに全力を注いだ。是非やってほしい。この《脳内上演》を。」という言葉があるんです。そのとおり、《脳内上演》はものすごく面白い。正直に明かすと、今回の候補作の中で唯一泣いたんですよ、高揚のあまり。でも、登場人物のドラマというより、「読者」としての視点がとても尊重されている気がするんですよね。戯曲を読んだ感動が上演戯曲としての感動かと言われると……うーん。だから大穴候補(笑)

落  なるほど。

河野 あとパレスチナの話が出てきたでしょう。ユキコは冒頭にはローマの地下にいて、家に帰れない、けれど車に乗ってどこかに行こうとする。でも、現実のパレスチナの人たちはどこにも帰れない。ある日家の鍵を持ったまま外出して何十年も帰宅できていない人や、その鍵をおじいちゃんの形見だと肌身離さず持っている難民の少年もいる。ユキコが神の大きな視点の中でも自分の道を選ぼうとする行動は、そんなパレスチナ人たちの希望であり、それでも欧米諸国の影響下にあるイスラエル・パレスチナ問題の苦しみと解決へ願いなのかもしれないなと、ふと思いました。

落  史上空前の帝国という磐石さを築いたローマのきらびやかさを思うと、そのローマの地下で細々暮らす人間たちは虐げられてきた人々の怨念なのでしょうね。132ページにISのことが出てきて、その時代の跳躍にははっとしました。ローマ帝国から現代のイスラエル・パレスチナまで来た。

河野 「全ての道はローマに通ず」と言いますが、全ての道はローマから始まる、という逆説も浮かびました。そのひろがりにパワーがありすぎて、途中でどう拾えばいいのかわからなくなったりもしましたけど(苦笑)。

落  レーゼドラマとして書かれたのであれば、何度でも読める。そしてどこかの抜粋上演でもいいと思う。演劇の「今、ここ」に対する古川さんの愛を感じました。

8.松原俊太郎『山山』

立入禁止区域。かつてそこに暮らしていた家族が我が家に戻ると、作業用ロボットと外国人労働者による除染作業が行われていた。山に分け入る一行。山から降りてくる鬼。放蕩息子の帰還は状況に変化をもたらすのか。 労働と愛(チェーホフ)、生と死(ベケット)、あらゆる表象と紋切り型(イェリネク)、そして「アメリカ」の「偉大な」作家ハーマン・メルヴィルの『バートルビー』をモチーフに、かつては美しかった山と汚染物質の山の狭間で暮らす家族たちの新たな抵抗を描く。

河野 平成が終わろうとしている今、戯曲で「平成」という単語が際立ったのは、松原さんだけでした。戯曲としてはもう、ダントツといってよかったですね。

「女は結婚して子どもを生むべき男は長時間労働で家庭を支えるべき子どもは大人しく年寄りの意見を聞いてハイになるべき女の無言は同意とみなす暴れればねじ伏せるべきなんてダイレクトには言わずに平静を装う平成オブラートに包んで言うんだけど明治大正昭和から中身変わってないじゃん」(松原俊太郎「山山」より)

落 圧倒的です。副題の”I would prefer not to.”という、有名なメルヴィルの小説「代書人バートルビー」に出てくる台詞に、本当はしてあげたいけど別にしなくていいならありがたいっていう日本語のニュアンスを当てはめた着眼点が残酷で素晴らしい。福島以外に住む大衆から向けられた、ある種の偽善を含んだ福島への目線を炙り出す。「何かしてあげたいのはやまやま」でも「せずにすめばありがたい」と思われている、見捨てられた絶望に松原さんはこの言葉を使うんだと気づいた時に、涙がこぼれました。そして、重々しいのに、読み進ませる筆力、文体が最高です。密度が濃いのよね。言葉遊びでの脱臼のさせかたも上手いよね。

河野 どうやってこの言葉たちはうまれてきたんだろう……言葉遊びでイメージを広げたり、突然まったく違う価値観をぶちこんで観客の固定概念を揺るがすやり方は、過去の戯曲や、詩や短歌でもよく使われますが、そのやり方が上手いし、泥くさいのにスマート。クセになる文体です。

落  演出の余地として、出ハケを指定しすぎてないから、俳優がいつどこにいてもいいのよね。ト書きがほぼない。後はそうだなあ……えーと、感覚的にすごく面白いものの本質と仕組みを説明するのって難しい(苦笑)。自身で候補作を演出をしていない3人のうち、坂元さんはドラマ的に作品としてピースとしてまとめる人で、古川さんは文学性を爆発させてきましたね。でもこれは、転がるような台詞の軽やかさを持つという意味で、詩的です。文体に可愛さもありますよね。

河野 セリフは転がっているとしても、その中で語られている内容や価値観が飛躍しているので、ちゃんと刺さる。たとえば、上演時間を費やしてマイノリティの価値観を説明したのが瀬戸山さんや根本さんだとしたら、松原さんはセリフの流れの中にいきなり真逆の価値観を登場させて、観客に価値観のジェットコースターを味わわせて揺さぶりをかける……みたいな。

落  「山山」という言葉の使用ルールにも興味を惹かれました。単語を畳み掛ける段階で、観る側を聴覚的にも教育してますね。空疎に見えて空疎でないループによって、意味を強化して刷り込んでいく。そして、忘れた頃に「被爆」などの具象的なワードを持ってきて、確信犯的に観る側を引き戻す。

河野 時間をかけて「山山」という言葉を観客に馴染ませ、それを効果的に使用していると思います。「山」がふたつあるのもいろんな受け止め方ができる。あと、ロボットも含め、全員の登場人物に起承転結のような大きな流れがあり、変化しているのが良い。

落  福島に住み続けていた家族の元を離れていた放蕩息子が帰ってきた場面は、演劇的に重要だなとは思いました。彼の帰宅に際して初めて妻が「あなた」という二人称を使った。それで、息子が外部の人間だということがわかった。

河野 そこについては、福島県が外部とどう関わっていくかのメタファーとしても読みました。

落  妻は、ずっと「わたしたち」と「わたし」っていう一人称を丁寧に使い分けていましたね。もちろん、参照元はエルフリーデ・イェリネク「光のない。」(2012年日本初演・演出三浦基)ですね。今作での「わたしたち」という言葉、単なるweなのか包括的なall of usという意味か、考えながら読んでいましたが、妻が息子を「あなた」と呼び、外部の者として見なしたことで「わたしたち」が観客、読者も含んだ"all of us"ではなく、彼女たち家族の"we"なのだと実感しました。「わたしたち」という言葉は、寂しくも残酷でもあります。

河野 沖縄の話も出てくるし、いろんなことが「わたくしごと」になっていますよね。しかも場面が変わって「わたしたち」と語り出すのは、いつも妻なんです。妻が家庭を守る存在として象徴にされていると思うんだけど、家庭にいる妻が夫より一歩下がっていないのがいいな。夫も優しいし。固定概念に囚われている登場人物がいなくて、良い意味でニュートラルです。しかも全員が変化していく。全員の中にはロボットも存在していて、その設定も素晴らしい。ロボットだからこそ表現できることが描かれている。

落 ロボットの耐用年数が17年っていうのは、イラク戦争を始めた方のブッシュ大統領誕生が2001年で、去年が2018年だからだと思います。

河野 ひとつ気になったのは、「言葉」の大事さを語っているところ。それまで演劇的だったのに、「言葉」を信じてしまうので、文学的な印象を感じました。個人的には大事なものは「言葉」ではなく「想像力」とかであると、より演劇の深みを感じられた気がします。言葉の重要性を感じさせることは、松原さんの味といえば味なんですが。とはいえ、演出の余白を持たせたうえで、時代性と普遍性が同時にあって、何十年後も作品として成立する作品なのかなと感じました。

落  原発事故について考え続ける作品として、2018年という、震災から7年という、人が何かを忘れるにじゅうぶんな時間の経過を、非常によく映していたと思います。

最終予想

河野 今回ノミネートされたうちの3作品が、自身で演出しない「劇作家」だということは少し意識しながら読みました。演出もする方は、自分で演出することでこの戯曲がより面白くなるという可能性を感じる戯曲かなと感じる部分もありましたし、劇作家の方は、戯曲がひとつの完結された作品とも見れる。

落  やはり松原さんの単独受賞に賭けたいという思いは変わらず、という感じでしょうか?

河野 正直、どれも個性があってそれぞれに面白かったんです。でも賞は戯曲という歴史の1年に一度の布石であると考えると、全作品を見渡した時に、松原さんの「山山」は今のこの2018年に刻む価値があるんじゃないかなと。それは作品のクオリティや時代性もありますが、ご本人の作家としての変化や可能性を考えた時にも、今の松原さんを評価する意義はあるんじゃないのかな、と思いました。冒頭でも言いましたが、同時受賞の可能性もあると思っていますが。ただ私は、戯曲を作品としてとらえたうえで考えているので、上演を踏まえたり、審査員の方々が何に注目して読むかではまったく違う評価軸になるかもしれません。

落  もし、古川さんが受賞して、松原さんが落ちたら私、怒る……! 20~30代の作家だって反乱を起こしていいと思う。だって私『山山』が受賞しなかったら、演劇界に希望ないと思うわ。好き嫌いとは違う次元で評価できる。希望も込めて、松原さん一択で行きましょう! 古川さんの良さも十分、語り合えましたし。

河野 女性劇作家についての考えはどうですか。話題にものぼりましたし、落さんはかなり気にしているポイントだと思いますが。

落  ノミネート作を増やすより、もっとノミネートに値する作品を女性劇作家が生み出し続けられるような、サステナブルな環境を先に作るべき。そうして長い目で培って、私たち女性批評家、ライターも寄り添っていきたいですね。

河野 性別観については、読者や観客や現実の状況に左右されるところはありますね。個人的には男性と女性にこだわりたくはないのですが、性別やトランスジェンダーや無性など、今の社会でカテゴライズされてしまっていることについてはアーティスト側に意識していただきたいことです。もちろん、性別以外でも。どんな形でどんな程度であれ、創作は現実と関係できているか、ということは重要視したいです。

落  まさにそれは批評やインタビュー、アーカイブの仕事についても言えることですね。作家たちの意図が実現できているか、あるいは、意図していないことを実現してしまっていないかと書きとめ、検証し、残すという役割の責任を果たしていきたいです。

河野 それは重要なことだと思います。

落  ひとつの時代が終わる前に、ふたりで話し合う機会を持てたことに感謝します。ありがとうございました。

<前編>はこちらから。

<中編>はこちらから。

◎プロフィール
***落 雅季子***
1983年東京生まれ。初等科より聖心女子学院で学び、一橋大学を卒業。金融、IT、貿易などの業務に携わりながら、批評・創作メディアLittleSophyを主宰。演劇人によるメールマガジン「ガーデン・パーティ」編集長、「CoRich舞台芸術まつり!」2014、2016審査員などを務める。2018年にはシビウ国際演劇祭に批評家として招聘された。
Twitter https://twitter.com/maki_co

***河野桃子***
桜美林大学にて演劇、舞台制作、アートマネジメントを学び、卒業後は週刊誌やテレビや経済誌などのメディアで記者、編集者、制作者として活動していました。現在は、商業演劇を中心に、小劇場、コンテンポラリーダンスなどのインタビューや公演記事を執筆しています。海外の芸術祭(演劇祭)の視察などにも力をいれている今日この頃。
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