いま時代を刻む 平成最後の岸田戯曲賞(中編)

第63回を迎える岸田國士戯曲賞の予想対談。
前編はこちらから。
後編はこちらから。

進行・構成/落 雅季子
あらすじ執筆/河野桃子

3.瀬戸山美咲『わたし、と戦争』

戦争が終わった。街へ帰還してきた兵士・ユリを待ち受けていたのは強烈なまでの日常だった。地域に馴染めないユリは同じく帰還兵のマキとだけ話をして過ごしている。ある日、ユリは家族に促されて足を運んだグループカウンセリングで、同じ部隊にいたリョウジと再会する。ユリはリョウジも拒絶するが……

落  「どこかの国」という設定が私は逃げの姿勢に見えてしまいました。詩森さんみたいに思いきり未来の日本の設定にしてもよかったのでは? 確かにベトナム戦争やイラク戦争の帰還兵のメンタルケアは現代の問題だから、世界を見れば現代である必然性はありますが。

河野 なるほど。私は「どこかの国」とあることで、もう最初からファンタジーだと思って、気にならなかったかも。でもここで描かれている「どこかの国」は、戦争をめぐる状況は私たちの世界とは異なりますが、戦争というものへの価値観やイメージは大きく違わないので、実感を持ちやすい。ここ数年で、私たちの日常には一気に戦争が身近になってきています。この脚本は、「もしかしたらこの世界は私の世界かも」と感じさせる筆力が強いなと感じました。ただ、主人公の兵士が女性である必要がわからず、その描写がもう少し明確だと世界観が想像しやすいかなと思いました。

落  読み始めた時は、なぜ女性が戦争に行ったかが詳しく描かれるかと思ったのですがね。38ページ「女性が活躍してる部隊なんですね」って言われたと語る台詞がユリにあるんだけど、なぜ女性が活躍するようになったかが分からない。女性兵士も、男性と数が等しかったわけじゃないということが書かれている。ユリとマキが少数派だった説得力がないともったいないですよ。言いたくないけれど、設定の斬新さを出すために女性にしたように見えてしまう……。

河野 この世界では男と女はどんな関係なのか……。「戦争に行ってずっと男の中で働いていた女と結婚すると後ろ指をさされる」という古くさい価値観を、兵士だった若いユリ自身が持っている。ユリは女性性というものにとらわれているように見えました。

落  マキの子供の死因が、戦争ではなく交通事故であるという点は、物語に、戦争一辺倒ではない奥行きを生んでいましたね。その死んだ子供を、マキがいつまでも迎えに行くエピソードは狂気が漂っていて良かったです。

河野 私はそのマキのエピソードがイマイチ乗れなかったんですよ。クライマックスにかけてマキの存在がひとつの鍵だとは思うのですが、そこで明かされるマキの秘密が戯曲のかなり早い段階で分かってしまったので、わかりやすく感動させているようにも感じてしまったんです。

落  (読み返して)ああ……本当だ。私、読み落としていました!

河野 あらかじめわかっていると、クライマックスのシーンがちょっと長い。物語の構成としてなぜ早く分からせたのかなと思いながら読んでいました。観客に何かを想像させようとしているのか、戯曲段階では演じる俳優だけにわからせておいて、上演の際には観客には気づかないように表現させるためのガイド的な記述なのか……。戯曲をひとつの作品だととらえた時に、マキの秘密が早い段階でわかってしまうことが効果的かどうは少し悶々としてしまいました。

落  なるほど。秀逸だなと思う点で触れたいのは、ユリの見合い相手であるタクヤの「軍隊にいくってことは自分ではないもののために死ぬことに「イエス」って言うこと」という台詞。その感覚はタクヤのエゴだけど、登場人物がエゴを見せる瞬間こそ、魅力的です。それから、その瞬間に、これはユリが「人を殺したことがある」という罪悪感にさいなまれる物語ではない、という像が結ばれます。

河野 タクヤが最終的にユリに対して下す決断は、良かったです。

落  実は、そのラストシーンが唐突で、置き去りにされたようで、私はダメでした。河野さんはどう解釈しました?

河野 私は、直前のシーンの感動が少し大仰だなと感じていたので、だからこそラストが少し突き放した感じでコントラストが効いたな、と思ったんです。戦争ではなく、個人の問題に物語を落としている。しかもラストは絶望なのか希望なのか、演出家もしくは観客に委ねられる戯曲の幅広さもある。

落  そうか……。私は先ほど話に上がったように、男女観の定まらない戯曲の中で、結婚を前提に出会った二人の関係性が尻切れに終わってしまい、希望も絶望も読み取れなくて。

河野 タイトルにも「わたし」という単語があるように、全体的に語りが私小説的なので好みは分かれそうですね。

落  詩森さんもですが、瀬戸山さんも、社会問題を調べて書く才能がとてもある。でも、その誠実さと優しさゆえに残酷になりきれないところを感じます。瀬戸山さんは、登場人物の心情にも配慮してしまうんだと思う。ライターがユリの経験を大衆ウケするように書き換えようとしたところも、台詞で否定してユリを庇うでしょう。

河野 なるほど。過去に岸田戯曲賞を受賞してきた女性作家、柳美里さんとや永井愛さんなどは、優しいこと言っているように感じられる時でも、ものすごく鋭く切り込んでいますよね。作家に「そこまで踏み込んだか…!」と感じさせられる時には、この演劇観て良かったなと思います。瀬戸山さんの作品は社会派と言われることも多いですが、社会派という枠を取り払って、思いきり題材を変えた瀬戸山さんの作品もまた違う輝きを放つんじゃないかなという気がしています。

落  ああ、リョウジの妹であるミサが、よりによってユリの叔父と援助交際した件についても、言及しておかないといけないな……。これはね、本当に劇作家とかに演劇をやる人に今一度、真摯に考えて欲しいんだけど、なんでセックスしないと人は本音を喋れない設定になってるんですか? セックスしなくても本音を喋る戯曲であってくれませんかね? 演劇のセックスシーンって、本当の自分みたいなものを描いていると思われすぎてる。ユリのおじさん・ケイスケがミサと繋がった理由もわからないし「本当は誰も君のこと好きじゃないよね」なんて言っちゃうのはおかしい。ケイスケは作家ですが、メンブレ(※メンタルブレイクの略。メンヘラの類語)した作家をジョーカーのように使いすぎ。メンブレ作家は、誰に何を言ってもいいっていうルールはないです。 

河野 小説でも、セックスがやたら大事に書かれているものは多いですよね、とくにふた昔前くらいに。物語に登場する作家は作者の自己投影でもあるんでしょうかね。でも瀬戸山さんも、次で話す根本宗子さんも、自身は女性ですが登場する作家は男性ですから、ただの偶然な気も……。劇作に登場する作家について、根本さんのところでちょっと考えてみましょうか。

4.根本宗子『愛犬ポリーの死、そして家族の話』

森家の四姉妹は、母も父もなく、支え合って生きてきた。現在、三人の姉たちは結婚して家を出ているが、それぞれの家庭には問題をかかえている。末っ子の花(22)は愛犬ポリーと実家でひとり暮らし。花は孤独のなかで「とりいしゅういちろうの本とポリーがいればそれでいい!」と周囲とのコミュニケーションを拒否している。そんな花のもとに、突然、憧れの小説家・鳥井柊一郎から連絡がある。

落  タイトルが「愛犬ポリーの死」だけなら、もっと良かったかな。でもポリーが犬である必要はどちらにしてもなかったです。

河野 そっかー! 私は逆に、犬のポリーが登場したから読みやすかったかな。日常的な会話のなかにある主人公の自意識と承認欲求の強さが読んでいてつらかったので、ファンタジー要素があると物語として楽しめました。ポリーと柊一郎を同じ俳優が演じてるから、実は柊一郎は実在しない妄想の人物だと思える。だって柊一郎みたいに、突然憧れの人が現れて自分の言いたいことを汲んでくれて愛してくれて受け入れてくれるって、もはや神話でしょう。こんなに都合のいいおじさんいる!? そんな妄想を、花と主従関係のある犬のポリーと同じ俳優が演じることで、昇華させたのはよかったです。

落  妻子持ちの中年小説家が22歳の女に手を出した設定に、嫌悪感が止まらなくなって読み終わるまでがしんどかったです。ポリーについてもそうでしたが、柊一郎に妻子を持たせる必然性がない。家庭を持ちつつ若い子にうつつを抜かしたい、現実にいるおじさん観客に目配せしただけでは?

河野 家族のある不倫設定にしたのは、家族じゃない単位での男女の繋がりを肯定するということでもあるのかも……? しかしそれを言いたければ家族設定でなくてもいいのは確かです。

落  セックスのことを「お仕置き」っていう、柊一郎の言葉のセレクトがキモい。でも一定数のおじさんには絶対喜ばれますね。

河野 そうなの!? それで喜ぶの!?

落  喜ぶよ。それから、作品中で結婚というもののエグさを書いていくのはいいんだけど、四姉妹という設定は、その失敗のパターンを詰め込んで姉妹にしましたっていうだけ。道具になっている。

河野 もっと家族の枠をぶっ壊してもいいですよね。それぞれの問題は描かれているんだけれど、それが想像を越える展開や痛みにまでなっていないから、読んでいてもこちらの心があまり動かない。展開が主観的なので、どの登場人物の事件も痛みも、主人公のために存在しているようにも見える。だからこそ主人公から見たファンタジーとして成り立っていて、ポリーの登場が効果的なのかなと。

落  マザコンの細かいエピソードは上手かったです。

河野 あ、そうそう!男性たちがことごとくクズなんだけど、創作じゃなくて実際の誰かのエピソードから着想を得たんじゃないかというくらい、リアリティがあるやりとりが書かれているなと。家庭内での問題を描写するシーンの男たちはとても魅力的でした。パワハラモラハラ旦那とか、元子役という過去の栄光を振りかざす人いるよね……(笑)。ただし、その描かれ方はステレオタイプでもある。主人公の目を通してデフォルメされているととらえたので気にはならなかったのですが、人間味がないといえばないです。そのなかでも三女の結婚相手の真一は、言葉と本心が違って人間的でいいですね。こういう、一人の人間の中に矛盾が見えると「おっ」と引き込まれます。

落  でもやっぱり私はこれもラストシーンが引っかかって……。最後に花が、自分で引き受けて小説家のおもちゃになろうと自己決定した風でいて、それって自分で自分を貶めてることになりませんか?

河野 花が、無意識でやっていたことを意識的に選ぶという結末は、悪くないと思いました。ある意味で成長です。でもせっかく演劇なのだから、その選んだ先にどこへ行くかをもうすこし見たいですね。

落  花の妄想の出口がないんですよね。妄想を認めて妄想の中で生きることを認めたラストシーンに読むこともできますが。群像劇としても薄かった。

河野 群像劇ではないですよね。それぞれの関係性のリアリティが少し薄いんですよ。独白のシーンも、自意識に客観性がなくて恍惚感が漂っています。だから全体的に妄想のような印象で、都合の良さも悪さも含めて主人公にとって主観的な印象を受ける戯曲です。

落  柊一郎さんに、父性を見出しているのだとしても説明がつかない。

河野 ははは(笑)。娘が柊一郎みたいなクズ男にお父さんを重ねるにしては、22歳という年齢はいきすぎている気もする。だから主人公の幼さと自意識が際立って味があるんだけれど。あと、なんとなく懐かしい空気を感じるのはなんでなんだろう。こんなに現代的な言葉を使ってるのに現代の匂いがしない。90年代感が漂っていて、それが現代の観客に人気だということは興味深いです。ただ、戯曲の力とは別にこの作風が人気があるということの危険性も感じています。もし女性作家がこのような女性像を描くことを観客が肯定的にとらえてるのだとしたら、それは「都合の良い女性像」に甘んじて、女性という存在を搾取してませんか? と思います。だからこそ、この作風を社会的に評価することについては……慎重です。それを危険だと感じない価値観の層に人気があるのは理解できますので、ファンを限定する作風なのかなと。

落  毒々しいようでいて毒はないですし、今年の作品としてノミネートした意味もないですね。

河野 瀬戸山さんの時に話していた、戯曲に小説家がよく登場することについてはどう思いますか?

落  物語を紡ぐ存在として、自己の代弁者として登場させやすいのだと思います。劇作家よりは、一般的になじみのある職業とも言えますし。ただ、あまりに毎年、候補作の登場人物に小説家が多くて……。ノミネートされない分の新作も入れたら、数えきれない「小説家」たちが演劇に登場し続けているのではないでしょうか。創作への懊悩や世界への鬱屈を描く時に、小説家を登場させる以外のバリエーションがひろがればいいなと辟易してしまうこともしばしばです。

河野 個人的には、作者の自己投影でなければいいなとは思いますね。自分の性別とは違う性別のキャラクターに自己を強く投影することは、キャラクターを都合のいいように描くことにも近いと思うんです。もちろん描き方にもよりますが。

5.松村翔子『反復と循環に付随するぼんやりの冒険』

不妊治療にはげむ主婦、整形にお金をつぎこむ女性、金融ローンのクレーム対応担当のサラリーマン、デイトレーダーの男性、不登校の少年、デリヘル嬢など、さまざまな人々が少しずつ絡み合って浮き彫りになる、お金の問題、ぼんやりとした輪郭、世界の断絶について。劇中では、実際に街頭で「お金とはなにか」とインタビューをおこなった映像を流すなどしている。

落  いろんな人間の欲望のパターンが描かれていましたね。不妊治療や整形手術、どれもお金がかかるという事実。

河野 面白かったです。お金に関してさまざまな価値観がでてきますが、金額が具体的に書かれていたのが良かったですね。

落  よくできた群像劇の条件である、登場人物同士のクロスも良かった。ここで、この人が彼を見かけてすれ違ってる……っていう。

河野 うまいですよね。登場人物同士は出会わないのに少しずつクロスさせるのって、整理しすぎるといやらしい感じになる。さりげなくて心地よかったです。あと、ちょっとした言葉の表現がすごく魅力的で、読んでいて嬉しい気分になりました。一人ひとりの多面性も描かれていて、人の心は単純じゃない、という印象を受けるのは良かったです。

落  お金とひとくちで言っても、ローンや、ビットコインという現代的なモチーフに踏み込んでいて興味深かったです。ただ、お金や価値の話をしてきたはずが、最終的にはぼんやりしちゃったなっていう感じはあって……タイトルで宣言しているとおり「ぼんやり」をやろうとしたんだとしたら、成功していますけど、そのぼんやりの先の景色を見たかったのも事実です。

河野 私も思いました。最後、すごくすごくいい台詞でありながら、登場人物が動き出すようで動き出さないので、もう少し踏み込んだその先を見てみたかったという気持ちもあります。

落  踏み込んだ方がクオリティ上がって面白くなると思います。

河野 結末が踏み込んでなくても面白いものって、「もっと踏み込んでほしいな」と思わせる余地がないんですよ。むしろ「踏み込まなくて良かった!」と思う。

落  松村さんは、踏み込まなかったのか踏み込めなかったのか戯曲では判断がつきませんでしたね。この作品は、戯曲としては短いから、もっと長さを持てばできたかもしれない。終盤の、偽札をばらまくという絵面のカタルシスに頼りすぎてしまったかな。松村さんがやりたかったのはこの絵をつくることだったとして、その目的に値する美しいものは見えたんだけど、それだと演劇ではなくて写真集的な感じがするんです。しかし、言葉のセンスは鋭い。

河野 センスがいいからよけいに、踏み込まなかったことが際立っちゃうのかな……。もしかして、もっと泥くさくて未完成な戯曲なら気にならなかったかもしれない。

落  未完成ではありませんが、やはり28ページではこれだけの群像劇をまとめきれない。

河野 まあ、これは小説じゃなくて上演のための戯曲なので、これくらいぼんやりでもいいのかもしれません。それぞれの登場人物の役割が明確だし、戯曲量も短くスッキリしているので、三次元で観ればぼんやりの向こうに何か浮かび上がってくるかも。ただ、各登場人物に役割を負わせたことによって、ちょっとキャラクターがメタファー的になってしまったかも?

落  かなり大人びた、作家の代弁者であるかのような思想を、あゆむという中学生に負わせるというのもフィクションの役目としてはアリです。それはデリヘル嬢であるらっこちゃんに対しても同様なんですがね……。誰しも14歳だったことはあるけれど、誰しもがセックスワーカーになるわけではないと考えると、そのフィクションを当然のように舞台に乗せるのは、表現としては危険かもしれない。うーん、うまく言えないんですが、こんなにお金の事を、明確に言語化できる人って、一般の風俗業界には、壊滅的に存在しないですよ。だから、演劇をつくる人が、デリヘルという職業を借りて自分の考えを語ってるようにどうしてもなってしまう。

河野 実際の風俗嬢の方々を思い浮かべると、らっこちゃんのような人は少ない印象ですね。なぜ彼女はここまで自分をコントロールできているのか、というところに人間の面白さがありそうなのですが、らっこちゃんはずっと賢いままです。彼女だけが、自己の内面や過去について自己分析している。

落  たかやなぎがちょっと黙ってたぐらいで「チェンジですか」なんて聞かないよね。お金欲しいじゃん。普通、自分からチェンジは言い出さないです。えげつない話だけど、風俗店は女の子の見た目のレベルで所属できる店のランクが決まるから、チェンジしたところで似たり寄ったりだし。

河野 もしかしたら、こういうサバサバした感じがウケがいいのかもしれない(笑)。このらっこちゃんからは、性的虐待やセックスワーカーをステレオタイプに当てはめて消費されることにある意味でNOを言っているわけなんだけれど、これは根本宗子さんの戯曲にあった不倫の文脈にも似ていると思うんです。性に関連することで、周囲に勝手に蔑まれたり、いいように扱われたり、非難されたりすることへのNO。この女性作家二人の、理屈によって既存の価値観に対抗しようとする一連の独白は、女性が少ない戯曲の業界において女性=マイノリティの主張のようにも読めました。考えすぎかなぁ。……女性が描くセックスってなんなんだろう。あまり男女で分けたくないんだけれど、現状、やっぱり性差がある気もしないでもない。

落  それを受けて、作品ではなくシーンに対する違和感なんですが、彼とらっこちゃんが結局15000円やり取りして、心を許して接近する流れもロマンティックすぎたな。

河野 作者が女性であることで「女性がそう書いてるなら世の女性観はこんな感じかな」と無意識でも思う男性がいないことを願いたいです。デリヘル嬢としてのらっこちゃんの存在はフィクションですから。

落  彼女がデリヘルを始めた理由が、いとこからの性的虐待を受けていたことと因果関係はあるともないとも言っているでしょう。その虚構に、もうちょっと責任を持ってほしいの。セックスワーカーの虚構を作るなら、責任を持ってもらわないと、女性の立場のためにならなくないですか?

河野 それについては、劇作家本人がどう思おうがその責任はつきまとってきますよね。残念ながら、今の世の中は男女平等じゃないから。

落  現に私たちも、松村さんに責任を負わせる物言いをしてしまいましたものね……。本当にね、こうした論点が、今後、女性批評家と女性劇作家の断絶を深めたらどうしようって思いますよ。いつもめちゃくちゃ悩んでるんです……。でもそれを踏まえた上でも、らっこちゃんというデリヘル嬢は、引っかかっちゃったよね。

河野 私はらっこちゃんより、あゆむが女子の制服着たことが引っかかったなぁ。らっこちゃんみたいなデリヘル嬢を在籍で抱える店がどれくらいあるのかっていうことと同じ次元で、あゆむはどこで女子の制服を手に入れて、どこで着替えて、どうやって公園までやってきたのかということのリアリティが想像しづらい。現実だとあるだろう諸問題を飛ばして描いているので、これは詩的な世界観の戯曲なんだと思うことにしました。そこに、実際のインタビュー映像が入るということがおそらく強いアクセントになっていると思います。この映像の印象によって、作品世界と現実の関係性が強固にもなるし、それこそ、ぼんやりしたものにもなるかも。

落  偽札をアートにするアイディアはグッと来ました。

河野 今の時代、お金をつくること、そしてそのことそのものをアートだとするのは風刺的でもありますね! だから偽札だということが紙幣のプロではない人に一瞬でバレたことによって、アートやそこにかける思いが陳腐なものになっちゃった。

落  そうそう。何と言っても、仮想通貨のトレーダーに即バレですからね。皮肉です。

河野 バレなかったらアートの可能性に興奮できたんだけどなぁ……演劇を観に来た観客に向けて、アートはうそっぱちだと言ったのかなと、穿った見方をしてしまいました(笑)

落  色んな人が色んな台詞を言って、人格が混ざって重なっていくのは合唱みたいで良かったですよね。あと、導入と終わりの台詞たちが抜群によかったし、声に出してみたくなった。フィジカルに影響するテクストでした。ただ一貫して、劇作家が強い意志でストーリーラインを引いているので、登場人物たちの同質性が気になりました。らっことたかやなぎ、なるみとあゆむなど、最初から存在として分かり合いすぎてる。

河野 たしかに、出会ったばかりでコミュニケーションにはトゲがあるのに、どこかスムーズに通じるところは、人間味がない。多少、劇作家の都合のいいようにも感じられますね。

落  女性の身体性についていちばん触れていたのは松村さんでしたね。月経前症候群というワードや、加味逍遥散という漢方薬の名称など。

河野 女性にとっては当たり前だけれど男性にとってはイメージしづらいだろう具体的な情報を差し込んでくるのはいいと思ったと同時に、では、同じレベルで男性の生理現象に関する具体事象を書けるのか、そこにフェアでいられるのかは、判断が付かなかったです。登場人物に対してフェアであるかということは、私はかなり気になるところです。

落  難しいですよ。フェアに描くということは、すべてを……この場合は男女をですが、平等に扱うことではないし。なぜならさっきも出たように、現実は男女不平等なのでね。その上、論考する側も死力を尽くしてフェアであらんとする重要さを、松村さんに教えてもらいました。

※3/12(火)追記

本対談における松村翔子さんの戯曲について、質問箱アプリにてご意見をいただきました。大変重要なご指摘でしたので、私と河野さんの考えを追記いたします。

松村翔子さんの戯曲に登場する「あゆむ」について、河野さんはあゆむは男だ、という判断なのかなと思ったのですが(女子の制服を着たのが引っかかったということでしたので)、ぼくはあゆむはそもそも生物学的に女なのでは? という解釈でして、どっちなんだろう? と思いました。あゆむが女だと思った根拠としては、最後の26頁「胸と塊と高鳴りがこれ以上腫れ上がるのを私は恐れた」という台詞の、「胸の塊」が「腫れ上がる」というのは、思春期に胸が盛り上がってくることを指しているのかな、と思ったのと、前半で先生に「制服が着たくない」と言うのは、学校に行きたくないという意味ではなく、「(自分は自分のことを「男」だと思っているのだけれど学校から与えられているのは女子の制服でそして学校というシステムのなかでは女子の制服を着ていくしかないのだがしかし「男」である自分はそれが嫌だから)制服が着たくない」ということなのかな? と思いました。

【落 雅季子】大変重要な視点を教えてくださり、ありがとうございます。これだけ、ジェンダーの問題や、女性劇作家の受賞の可能性について議論しながら、ご指摘の点を読み落としてしまったのは忸怩たる思いです。松村さんの意図を読み取りきれず、あれだけ注意深く批評の視点を持とうと思っていたのに、申し訳ないです。おかげさまで、あゆむが同級生の女子に抱く感情、「システム」という単語の唐突さ、ラストシーンで「私」と「僕」という一人称が混在してゆくさまなど、気にはなっていたけれど理屈に落とし込めなかった部分がすべてつながった思いです。こうして質問箱を通してご意見をくださり、私も河野さんも気づけなかった領域を広げられたことに感謝します。こうしてこれからも、素直に、さまざまなスタンスの人がフラットに戯曲について意見を出し合えるよう、私もいろんな人と話し、埋め合ってより豊かなものを生み出せるようにますます努力いたします。ありがとうございました。

【河野桃子】対談で松村翔子さん戯曲についてコメントしましたが「あゆむは男性とは限らないのではないでしょうか。なぜなら〜」とご意見をいただき、なるほど! と膝を打ちました! おっしゃる通り、私の戯曲の読みが甘かったなと反省しています。松村さんにも申し訳ない気持ちです。同時に、ひとつの戯曲を挟んで「こうじゃないの?」「こうかも!」と発想が広がる幸せにワクワクしました。これからもいろんな方々のご意見お伺いしてみたい、いろんな方とお話ししてみたいです。きっと他の戯曲についても、対談内容とは違うご意見や発見をお持ちの方はいらっしゃると思います。ぜひお伺いしたいです。とともに、いろんな場所で、「この戯曲はこうも読めるかも!」と発見を知る喜びがうまれますように。ご指摘くださった方、ならびに松村さん、どうもありがとうございます。


<いま時代を刻む 平成最後の岸田戯曲賞(後編)>

<いま時代を刻む 平成最後の岸田戯曲賞(前編)>

◎プロフィール
***落 雅季子***
1983年東京生まれ。初等科より聖心女子学院で学び、一橋大学を卒業。金融、IT、貿易などの業務に携わりながら、批評・創作メディアLittleSophyを主宰。演劇人によるメールマガジン「ガーデン・パーティ」編集長、「CoRich舞台芸術まつり!」2014、2016審査員などを務める。2018年にはシビウ国際演劇祭に批評家として招聘された。
Twitter https://twitter.com/maki_co

***河野桃子***
桜美林大学にて演劇、舞台制作、アートマネジメントを学び、卒業後は週刊誌やテレビや経済誌などのメディアで記者、編集者、制作者として活動していました。現在は、商業演劇を中心に、小劇場、コンテンポラリーダンスなどのインタビューや公演記事を執筆しています。海外の芸術祭(演劇祭)の視察などにも力をいれている今日この頃。
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