見出し画像

『誰のためのアクセシビリティ?』 はじめに/田中みゆき

この4月から、障害のある人への合理的配慮が民間の事業者にも義務づけられました。わたしたちはどのように向き合えばよいでしょうか?
田中みゆきさんは、『音で観るダンスのワークインプログレス』や『オーディオゲームセンター』など、障害のある人を含む鑑賞者とともに様々なイベントや展覧会を企画し、表現の見方やとらえ方を再考してきました。
そんな田中さんが今、『誰のためのアクセシビリティ?』という本を執筆しています。障害のある人への配慮やアクセシビリティを考える時、どうしても取りこぼされてしまう人がいるのではないか。多数派の作ったルールや倫理で成り立つこの社会で困難を抱える人々の話を、まず聞くことから始めたい。そうした思いから生まれたエッセイや対話を収録した本です。刊行は少し先になりますが、一人でも多くの方と共に考え、話し合うきっかけになることを願い、「はじめに」から公開いたします。



『誰のためのアクセシビリティ?』 田中みゆき

はじめに

 アクセシビリティを「アクセスができること」と考えると、多くの人は、それがどのような状態を指しているのか、実感が持てないかもしれない。なぜならその人たちにとって、この世の多くのものは、自分たちの意思次第でアクセスできるようにつくられているからだ。開けられないドアはドアではないし、どこにもつながらない道はない。あったとしても、それらの欠陥は多くの人たちのニーズによって淘汰され、遅かれ早かれ修正される。一方、アクセスができない人たちが少数且つ、そもそもアクセシビリティがないことによって体験や情報を得ることすら妨げられている場合は、それらのニーズは対応されるどころか、発見されることすらない。

 わたしはこれまで多くの障害のある人と出会い、今も一緒に過ごすなかで、多くの人にとっての当たり前の行為が、彼らには保障されない状況を見てきた。たとえば、駅で延々と介助の駅員を待たされ、乗りたい電車に乗れない。突然点字ブロックが消えてしまい、道を失う。暗証番号の入力を人に頼まないとお金を支払えない。その度に、わたしはこの社会の途方もない欠陥に憤りを感じてきた。今のところ障害がないとされる自分が意識もせずにできていることが、いかに彼らにとって入念な準備と、寛容さ、忍耐を求めるものであることか。そして、しばしば好奇の目に晒されたり、プライバシーを手放さなければならないものであるという現実に。

 「アクセスできること」を、「さまざまな身体的・認知的特性にかかわらずモノやサービスにアクセスできるようにすること」と考えてみる。この4月には、改正障害者差別解消法が施行され、合理的配慮が民間事業者にも義務化された。

内閣府が制定した「障害を理由とする差別の解消の推進に関する基本方針」では、合理的配慮の一例として以下の三つが挙げられている。
・車椅子利用者のために段差に携帯スロープを渡す、高い所に陳列された商品を取って渡すなどの物理的環境に係る対応を行うこと。
・筆談、読み上げ、手話、コミュニケーションボードの活用などによるコミュニケーション、振り仮名や写真、イラストなど分かりやすい表現を使って説明をするなどの意思疎通に係る対応を行うこと。
・障害の特性に応じた休憩時間の調整や必要なデジタル機器の使用の許可などのルール・慣行の柔軟な変更を行うこと。

内閣府「障害を理由とする差別の解消の推進に関する基本方針

 コロナ禍に、家から出られないことや人と会えないことが社会に参加するにあたって大きな支障を生む状態を誰もが経験した。そうして、障害のある人たちが長年必要性を訴えてきたリモートでの授業や職場へのアクセスは、瞬く間に実現した。しかし、多くの人が経験していないだけで、上に挙げられた例に留まらず、さまざまな種類やレベルにおいてアクセシビリティがないことによって、障害のある人の社会参加は阻まれてきた。そのアクセシビリティのなさ自体が障害と捉えられてこなかったのは、この社会が、常に自分の体や精神の状態を社会が求める一定の範囲内に収められる人たちを前提につくられているからだ。

 では、アクセシビリティさえ用意されれば、公平な社会が訪れるのだろうか。たとえば、映画館に車椅子席を用意する。もちろんそれは、何もない状態と比べたら大きな進歩だ。でも、それだけで果たして、車椅子の人は車椅子の必要ない人と、同じ体験ができているといえるのだろうか。
 たとえば、いわゆる障害がないとされている人たちは、映画館に行けば自分で好きな席を選ぶことができる。障害のない人が、その人がその人であるという理由だけで誰かに勝手に席を決められたら、理不尽に思うだろう。しかしそんな状況が、障害のある人には四六時中、休むことなく起こっている。

 障害のある人がアクセシビリティを求めて声を上げることに対して、「ズルい」や「わがままだ」という声が障害のない人から上がるのを見る。たとえば、都市部の大きな駅では、車椅子優先改札や車椅子優先エレベーターがしばしば見られる。しかしそれらは多くの場合、早い者勝ちで、車椅子利用者は満員のエレベーターを何台か見送らないと利用することができないという状況がある。人権は誰しもに等しくある一方で、人間は不平等につくられている。同じ移動をするにあたっても、体の違いによって身体的・心理的コストは大きく異なる。しかしそういった声は、そのコストはなかったものとして、その瞬間だけを見て「不公平」だと言う。社会がその人の体に対応できていないことによって、その人にどのようなコストが積み重なっているのか、多くの人は想像ができない。

 少なくとも、映画館の階段にスロープを付けて終わり、映像に字幕を付けて終わりというだけでは、本当の意味でアクセシブルな社会にはなっていかない。その周辺にはまだ、障害のある人への落とし穴がたくさんあることが予想されるからだ。それは映画館の中だけで完結する話ではない。誰かの力を借りないと予約できない、会場にたどり着けない、といったこともその一部だ。
 そうやって挙げていくと、アクセシビリティがチェックリストのようにどんどん溜まっていくような印象を受ける人もいるかもしれない。でも答えはシンプルで、人が「映画を見る」体験にはどういった行為が含まれているかを、マジョリティとは異なる体を持つ人たちと考えることから始めればよいのだと思う。

 わたしは、アクセシビリティのままならなさと可能性に惹かれ、活動をしてきた。その面白さは、障害のある人がない人と同じように体験するということを超えて、さまざまな違いを持った人が自分の体でもって主体的に物事を体験するとは一体どのようなことなのかを考えることにある。それは、たとえば目が見えない人が「ダンスを見る」とはどのような経験なのか、「ゲームをする」という体感はどこから得られるのか。アクセシビリティは、障害の有無に関わらず、ひとつの体験の本質を考えることと、必然的につながってくる問いだからである。
 そんな時、小手先の対策だけではなく、障害のある人の生きる経験から学ぶことが多くあるとわたしは思う。「合理的配慮」は、ニーズを訴える人をひとりの人間として想像することから始まるのだ。

 確かに、障害の有無問わず、複雑化するこの社会では、人の尊厳がどんどん軽く見られるようになってしまったのかもしれない。テクノロジーは、障害のある人の生活にも便利さをもたらす一方で、能力主義や効率を後押しするエイブリズム(健常者の価値観にもとづく差別)を加速させていないだろうか。アクセシビリティを考える過程は、そういった複雑な問題を解いていくことでもあると思う。その扱う範囲は広大だからこそ、一人やひとつの組織で担いきれるものではない。それぞれが、それぞれのできることを積み重ねていくしかないのだ。そしてその先には、誰もが生きやすい社会が待っていると思う。

 たとえば映画やゲームについたアクセシビリティも、マジョリティがつくったものを障害のある人に伝えようという意図で付けられている限り、エイブリズムから逃れられない。本当の意味で公平な社会をつくるには、障害のある人がモノやサービスの受け手に留まっているのではなく、つくり手として社会に参加し、自分たちの物語を生み出していく必要がある。しかしそれを実現するためにも、マイノリティへの機会の不平等を解消する教育や専門知識へのアクセシビリティが必要になってくる。
 つまり、アクセシビリティは、この社会により多くの人が参加できるようにすることで、どう社会を公平につくり変えることができるのかを整える、民主主義に関わる問題なのだ。

 これから書くことは、わたしが個人的に出会って交流や協働をしてきた、さまざまな障害のある人たちとの経験にもとづいている。障害のある人がいる環境が当たり前にあったわけではないわたしが、大人になってから障害のある人たちと出会って気づかせてもらった「障害」という概念の曖昧さ、自分たちの社会が向かう先のこと、人間の逞しさやおかしみについて、アクセシビリティを軸に書いていこうと思う。
 アクセシビリティは一筋縄ではいかないし、ひとつの答えがあるわけでもない。敢えて言うなら、答えはひとつではない、ということが答えと言えるだろう。

 しかし、この本を読み終わる頃には、アクセシビリティの先にいるのが、生々しい体と感性、生活を持った人間であることを少しでも想像できるようになってもらえたなら、わたしたちはともにアクセシブルな世界に近づくための対話を始めることができるのではないかと思う。



------------------------
著者:田中みゆき
キュレーター、プロデューサー。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマにカテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の見方や捉え方を障害のある人たち含む鑑賞者とともに再考する。近年の仕事に『音で観るダンスのワークインプログレス』(KAAT神奈川芸術劇場ほか、2017–)、展覧会「語りの複数性」(東京都渋谷公園通りギャラリー、2021)、「オーディオゲームセンター」(2017–)など。アジアン・カルチュラル・カウンシルの助成を得て、2022年ニューヨーク大学障害学センター客員研究員。美術評論家連盟会員。

*『誰のためのアクセシビリティ』(田中みゆき・著/リトルモア刊)は、
2024年初夏刊行予定で、鋭意制作中!次回更新までしばしお待ち下さい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?