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#14 今夜はたっぷりと、ひとばんじゅう歌ってあげるよ。

#1コマでどれだけ語れるかチャレンジ

早速だが、下記のコマを見ていただきたい。

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「藤子・F・不二雄大全集 ドラえもん 1」掲載「ドラえもんのうた」の1コマ。ジャイアンの初リサイタルに参加するのび太達を音の出なくなるマイクで救ったドラえもんは、その後体の中にマツムシが入る事により、電子頭脳に異常を起こしてしまう。「なんだか急に歌いたくなった」ドラえもんは、ジャイアンよりもひどい歌声を披露し、「なんて美しいんだろう」と自分で惚れ惚れし、みんなに聞かせて回り出す。怯えて隠れる皆を、無理やりに道具で連れ出し、会場である空き地に集めているというシーン。

このコマの凄いところは、まず

外が夜で真っ暗である。と言う事を、

コマを暗くせずに表現している。と言う事である。

夜の表現は、一般的には背景が暗いものである。しかし、ドラえもんを含むキャラクターのシルエットが、真っ黒である事がこのシーンには明かりが一つもないという事を表している。

これによって、背景が暗いという暗さの表現よりも、より暗い闇の中でこのシーンが展開されている事が分かる。

さらにここで効果的な演出をしているのが、次の点だ。

シーンのアングルである。

この道端は、どこと言う明言こそないが、のび太達がいつも空き地に行くであろう、いつもの道であると考える。

これを俯瞰から、斜めに見ている事で、シルエットで描かれているドラえもんに呼び出された人々が、たくさんいるという事が分かる。真横からのアングルであれば、せいぜい4、5名が関の山だったであろう。その結果、このコマにいる人数は、10名となっている。

これは、ドラえもんという漫画の中でも、1コマに出てくる数としては、多い方である。(人避けジャイロのラストや、プールシーン、映画館などを除けばであるが)

そして、連れ出される人々のポーズを見ていただきたい。完璧なまでに、操られており、自分の意志はそこに無い事がわかる。体は勝手に動いており、暗さの表現から推測するに、目の前は良く見えてもいないのではないだろうか。

彼らの顔は、良く見えない。しかし、悲痛に叫ぶような口だけが見えており、力なく項垂れたり、助けを求めているかのように手をいっぱいに広げ、冷や汗をかいているのである。

そして、いよいよドラえもんを見て欲しい。

互い違いの目という表現は、F先生もA先生もお得意の表現である。焦点が定まらない目が、他者に与える印象は「言い知れぬ恐怖」である。それでいて、口は満面の笑みである。アシンメトリーこそが、ギャップであり違和感と不安感である。そして、この恐怖の台詞である。

「今夜はたっぷりと、ひとばんじゅう歌ってあげるよ。」

本当の悪とは、自覚のない悪である。と言う。正義の反対は、もう一つの正義という言葉もある。この時のドラえもんにとっては、自分の歌を皆に聞かせるのは、正義であろう。

しかし、ここで本当に表現されているのは、狂気だ。エゴイズムと、強制を持って行われるリンチとも言えるかも知れない。生きる屍と化した人々を先導する独裁者が、狂気を持って正義を執行しようとしているのだ。

だから、このコマには力なくもう一つの台詞が足されている。

「そんなにきかされたら、死んじゃう」

見るに耐えない、思わず目を背けてしまいたくなるようなコマなのである。

ここまで紐解いたとき、僕はのある有名な絵画を思い出した。


パブロ・ピカソの「ゲルニカ」である。

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BGMとして「パリは燃えているか」を脳内で流してください

この絵がいかにメッセージ性があり、どんな思いで描かれているのかについてはここでは触れないが、ここにある狂気や悲しみ、憂い、恐怖などが僕には、このコマと重なって見えた。時代を超えたアートの力の共通項である。


歌とはアートである。アートは時として人を狂わせる。胸に訴えかけて、思わず目を背けたくなるような力がある。

この漫画という、音の無い世界で「ボゲー」を生み出したF先生のアート。聞こえてこないハズのその歌声は、現代の僕たちにも訴えかけてくる。

思わず耳を塞ぎたくなるような歌声が、ドラえもんの口から聞こえてくる。それは狂気の歌声だ。

ちなみに僕はカラオケが嫌いだ。自分がオンチだと言う事を知っているからだ。

もしかしたら、F先生はオンチが嫌いだったのかも知れない。それかF先生は、自分がオンチであるという事を自覚していない、むしろ、自分が歌が上手い(アーティスティックである)と思っている人が、何も考えずに発散しているのが嫌いなのかも知れない。

こんなにネタとしてオンチが使われ続けるのは、なにか因縁があったのだろうか。

エゴと自己満足に陥ったアートは、狂気であり目を背けたくなる・・・かも知れない。しかし、そこにパワーがあるのも事実である。

ドラえもんの異常の原因になったマツムシは、セワシ君の修理によってドラえもんの体から出て行き、のび太の家の庭で美しい鳴き声を出している。このラストカットで「ドラえもんのうた」は終わる。

歌は人間の物である。歌を歌うのは人間だけである。しかし、鳴いている虫の声は、歌声のように聞こえる。虫が鳴くのは、本能でありそこに意思や思いは無い。ましてや正義でも何でもない。

しかし、虫の声は胸に訴えてくるものがある。だからきっとアートなんだろう。

一見、狂気の固まりのようなセリフであったが、今夜たっぷりとひとばんじゅう、歌ってくれたのは、マツムシだったのだ。狂っていたのではない。そういう物だったのだ。

それがアートであるならば、あるがままを肯定するべきなのかもしれない。

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